赤錆色の恋

 リツィアは、ゆっくり瞬きをした。
 目の前にいる母と祖母がはっきり見えないのだ。暖炉の薪が湿っていて煙を吐き出しているときのように、もしくはとても寒い日の朝に丘の向こうを見えなくする霧のように、二人の姿をぼんやりとさせている。
 目をこすろうとあげかけた手は、暖かい手に押さえられた。
「リッツ。動かないで」
「目が変なの」
 唇を尖らせて訴える幼子の気配に、大人たちはふっと笑ったようだ。
 痛いかと聞かれ、首を振ると褒める様に頭が撫でられた。
「じゃあ、かあちゃんがいいよって言うまで、ぎゅっとつむっておいで。」
「かあちゃんとばあちゃんの言うこと、よく聞くのよ」
「そうしたら、目が変なのもちゃんと治るからね」
 リツィアは一つ頷いて、言われるまましっかりと目を閉じた。
「リッツ、これからあんたの大好きなお話をしてあげようね――」
 夜子供が寝付くまで代わる代わる語られるお話。強い王様のことだったりきれいなお姫様の暮らしだったり、遠い遠いどこかの場所のお話は、どれもみな大好きだった。
 けれど、結局、リツィアが目を開けたとき、大好きな母の物語は、欠片一つ残さず記憶の外に放り出されていた。




「放り出したんじゃなくて、一番底に埋まってたわけねー・・・・」
 覇気ややる気といったものが全く含まれていない口調で、机に頬杖をついたリツィアは呟いた。唇の片端が持ち上がって笑みを浮かべたような表情になっているのは、彼女が不機嫌な時の特徴だ。
 形よく整えた爪で一粒の石をつまみ上げている。親指の爪の半分ほどの大きさの紅石だ。
 否、紅石だったものという方が正しいか。輝かしい光を放つだけの力をとうに失い、一粒の宝石は「宝石」としての寿命を終えてしまっているのだから。
 紅石がどれだけの年月輝くかなぞ知るわけもないが、相当古い、ということだけはリツィアも断言できる。台座のまわりを飾っていたはずの――恐らく指輪として仕立てられていたのだろう――細工は、いまや面影一つ残してはいない。
 かろうじて残った、意匠のただ一つの名残である輪っかに鎖を引っかけ、今では首飾りに変えられている。そこでしか石を吊ることができないために、本来の石の上下から考えれば傾いでいるかもしれない。
 この石を、リツィアは5才の年に母から譲り受けた。もっとも、手元に置くのを許されたのは今日。15年もたってからだ。
 価値なぞありそうにないそれは、見るからにいわくありげだ。何年、何十年、もしくは何百年も大事に受けつがれてきたのだから、相当のいわくがあってしかるべきである。
 語られる、語り継がれるべきこの石のいわくは、確かに存在した。そして、いわくそのものが、リツィアを不機嫌にしているのだ
「子供だましだわ、絶対に」
 独り不平を、石にぶつける。
 何が――もちろん、いわくが、である。
『昔々、遠い昔。一人の少女が――リツィアの遠いご先祖様にあたるそうだ――恋をした。
 これがありふれた話で、許されぬ恋だった。
 すったもんだのあげく、それぞれ別のものを伴侶に迎えることを余儀なくされ、相手の男が少女に渡した唯一のものが、元々はすばらしく美しかっただろう、紅石の指輪、というわけである。
 愛するのはお前一人。この石を私のかわりにそばに置いておくれ。もはや私は抜け殻。その石の中にこそ、私の魂はある。お前に何かあれば、魂をかけて守り抜くと誓う。たった一度しかできないけれど、私の持てるすべての力を持ってお前の願いを叶えよう。
 男は別れる間ぎわ、そんな台詞を残したのだという。』
いわくをかいつまんで話せば、これだけで足りる。詳しく話せばお涙頂戴の悲恋の話と
なるのだが、指輪そのものの由来にこれ以上の説明は不要だ。
「阿呆らしい」
 めでたくその石を押しつけられたリツィアにしてみれば、子供だましの一言で片付けてしまいたくなるような話である。――けれど。
 5才の歳に代々の娘に伝えられる話の最後に、舌をかみそうな長ったらしい文句がついてきた。いわゆる、呪文、というやつで、男が魂をかけると誓った、女の願いを叶える鍵となる言葉である。
 それは、ある時期にならなければ記憶の底に埋めこまれて出てこない。母に言わせれば、それは石が決めるのだという。埋もれた記憶が戻ってきた時が、石を受けつぐ日である。
 根本的に、願いをかなえてくれるという根拠が全く示されていない物語は、幼い子供が喜ぶお話の域を出ない。これがその石だよと渡されても、信じろというほうが無理だ。そもそも、母や祖母――リツィアに連なる過去の女性たちが、石と話を律儀に伝え続けてきたということ自体が奇跡に近い。
 けれど。今日まで本当に憶えていなかった出来事が、突然手にとるように浮かんできたのでは、嘘だと否定するのも難しい。。
 それを身をもって経験させられたからこその、不機嫌だ。
「気に入らないわ」
 紅石を目の高さまで持ち上げて、リツィアはフンと皮肉に笑う。
「いったいどれだけさかのぼればいいか知らないけどさ、莫迦げてると思わない? あなたが好きな人もあなた自身も、もう骨だって残ってないんじゃないの。第一、あなたが好きな人と、それを奪ってった男の間にできた子の子孫があたしなんじゃないの。よくもまぁ、律儀なことね。あなたが誓った相手でもないのに。あなたが願った相手は、あなたに願ってくれなかったのに」
 リツィアの瞳が、すう、と細まる。
「愚かっていうのよ、それは。わかってるんでしょ、自分でも。それとも魂にかけた誓いにしばられちゃってるわけ? 親族だって三代もたてば他人も同然なのに、元々赤の他人を見てて、あなた楽しい?」
 石に語りかける娘というのはある意味不気味に映る図だが、喋っているうちにますます怒りがこみ上げてきたリツィアは、もはや気にしない。
「あたしだったら絶対ご免だわ。うちの親が何考えてるのかしらないけど、あたしにまで押しつけてほしくないわ。邪魔なの。はっきりいって、迷惑よ。こっちには何の理由もないもの。いい? 気色悪いその力あるんなら、自分でよぉっく考えなさい。それでも、あなたがあたしの願いまで叶えようって莫迦な男なら、あたしが望むのは、あなたが消えてくれることよ。―――――――」
 リツィアの唇が、不可思議な言葉を宿した。
 呪文だ。誰かが一度使ってしまえばそれで終わりの。
 彼が自分に使うことを許すなら、リツィアが望むのは一つ。
 元へと還れ。
 愛しい女との思い出の中へ。

 紅石が、一つ身ぶるいする。
 それから、白い筋が幾本も現れ。
 砕け散るのではなく、小さな欠片となって力尽きたかのように零れ落ちていく。
 ポロポロ、ポロポロ。
 紅い、涙だ。

 机の上には、赤錆色の恋の欠片だけが残された。

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