あなたがいない間にも時は流れて

 瀬戸物の風鈴がちりんと鳴った。
「いらっしゃい、待ってたのよ」
 書棚の奥から顔を出した葵は、俯き加減に入ってきた客の若者を手招きした。
 青年は、くたびれた解禁シャツから覗く首元をせわしなく拭っている。
対して葵は、地味な色のもんぺを穿き、一つに結った頭を手ぬぐいで覆った地味な出で立ちだ。まだ幼さが残る顔つきは、両耳の後ろにお下げを垂らした女学生というほうが似合っている。
「この前言ってらした本、運良く手に入ったの。少し痛んでしまっているけれど、読むには十分だと思うわ」
言いながら、葵は店の奥の小さな座敷に置かれた座卓の上から一冊の本を取り上げた。
 紙は黄色く変色し、表紙は角が落ちて丸く毛羽立っている。それでも、風格のある立派な本だった。
 青年の顔にぱっと喜色が灯る。けれどそれは、僅か一瞬で掻き消えてしまった。
「あの……」
「あら、これじゃなかった?」
「いえ、それで合ってます。でも僕、今持ち合わせがなくて……」
「間違いじゃないのね? よかった。だったらこのまま持っていって。お金なんていつでもいいもの」
 けれど青年は差し出された書籍には手を伸ばそうとせず、視線を左右に彷徨わせた。
 書棚の陰にいる中年の客は、背中を丸め本を抱え込むようにしながら、顔も上げようとしなかった。
 ほかの人間が自分に関心のないことを確かめて、青年は意を決したように言った。
「僕、郷里へ帰ることになったんです。凄く田舎で何もないところだけど、食うには困らないからって両親が。それで、近々帰ることにしたんです。今日は――今日は、今までご挨拶にと思って」
「まあ、ご実家に帰られるのね? だったら尚のこと、間に合ってよかったわ。是非この本も連れて行ってあげてください」
 葵は笑顔のまま、差し出した本を引っ込めようとはしない。
 青年は困ったまま手を出しあぐねていた。
 郷里に帰るということは、少なくとも何年もこの土地に戻ってこれないことだと分かっていた。持ち合わせがあるならともかくも、後払いとしておくには年単位の時間は長すぎる。けれど諦めてしまうには、目の前に差し出された本への誘惑も強すぎる。
 常識と欲望とが拮抗して、答えは出ない。
「受けとりゃあいいじゃねえか」
 止まってしまった思考を蹴り飛ばすように口を挟んだのは、本棚の合間で熱心に本を読んでいた客だった。ほんの少し前までは誰もが着ていた国民服が、より厳つい印象を抱かせる。
 青年はぎょっとのけぞった。
「嬢ちゃんは支払いなんていつでもいいって言ってるんだ。受け取っとけ。お前さん、踏み倒すつもりはないんだろ?」
「ありません。ちゃんとお支払いするつもりで…・…」
「じゃあいいじゃねえか。何年後でもきっちり支払いにくれば。それか、田舎からでも送金くらいできるだろう」
 青年はごくりと喉を鳴らした。けれど、まだ手は伸びない。
「ああもう、まどろっこしいな。よし、決めた。兄ちゃんがいらねえなら俺が貰う。俺ぁよ、この年まで額なんざこれっぽっちも持ち合わせちゃいなかった男だ。けどな、最近ここの本を読ませてもらって、学問ってのがが面白くて仕方なくなってるとこなんだ。兄ちゃんがそんな顔するぐらいだ、こいつぁ格別面白いんだろうな」
 男はそういって、本に手を伸ばす素振りを見せた。
「俺だったら何を置いても貰っていくがね。迷ってるぐらいなら諦めちまいな。そんで、電車の中ででも後悔しやがれ」
 意地の悪い笑みを浮かべ、葵に伺いをたてる。
「なあ嬢ちゃん、この兄ちゃんが要らない時は、俺が買ってもかまわねえだろ?」
「あら、どうしましょ」
 葵は悩むように首を傾げた。その手から、本がひったくるように取り上げられる。
「僕、この本いただきます! お代はすぐにはお支払いできないですけど、出立までにはきっと、きっと工面してきます。もし払いきれなかったら、何年かかってでもちゃんとお返しします!」
「そう、それならよかった。これ、貴方が探してらした本ですものね」
 葵は、安心したように笑う。
「本当に、お金のことは気にしないでくださいね」
 青年は赤くなった顔を隠すこともせず、何度も頭をさげ、本を胸に抱くようにして店を出て行った。
「ああよかった」
 静かになった店内で、葵は男を振り返った。
「ずっと探してらした本なの。お渡しできて良かったわ。ありがとうございます、今岡さん」
「嬢ちゃんも人が悪いや。なにがどうしましょ、だ。俺に渡す気なんて最初からなかったろ」
 今岡と呼ばれた中年の客は、うんと背伸びしながら片頬をつりあげた。
「あら、私はそうなってもよかったんですよ。あの方がいらないとおっしゃるなら、欲しいといってくださる方にお譲りしますもの。今岡さん。本当に興味がおありならもう一冊お探ししましょうか? 外国の方が書いた、医学書ですけど」
「いらねえ、いらねえ! 俺ぁこういう、切った張ったの任侠もんとか、悪モンがばっさり成敗されるようなのが好きなんだ」
 顔を見合わせた二人は、共犯者のように笑いあった。
「そうだ、お茶淹れましょうか」
「いいよ。もう読み終わったし、そろそろ帰るわ。うちのカカアの頭に角が生えちまう」
 よっこいせ、と腰をあげた今岡は、黄ばんだ本を葵に返した。
「買わずに読んじまう俺が言うのもなんだけどよ。嬢ちゃんも店主らしい顔つきになってきたよな。最初はどうなるかと思ったが」
「違います、私は店主じゃありません」
 葵の細い眉が、形よく寄せられる。
「私は主人が帰ってくるまでの留守番を頼まれているだけです」
「悪ぃ、そうだったな。――ところで」
 今岡は声を低めた。
「ご亭主、消息は分かったのかい?」
「いえ――」
 葵の声は、それ以上に低く小さくなる。
「義兄の話では、復員船で帰ってくるのではないかということでした。でも、それ以上は……」
「そうか……。まあ、あの人のことだ、ひょっこり帰ってきてびっくりさせられるんだろうよ。あんたを連れてきたときもそうだったしな。学校でたかどうかくらいの娘をさして、僕の妻になる人ですよろしく、ときたもんだ」
葵は、ふふ、と笑った。照れている。
「その細ッこい嬢ちゃんが、今じゃしっかり店の看板だ」
「でも、私に任せるのは不安そうでした。何度も念を押されましたもの」
「そりゃあなあ……」
「だからきっと、無事に帰ってきます。私と本の山を残したままだなんて、気がかりが多すぎて」
「おちおちしてられねえ、ってか。そうだな、違いねえ」
 二人は声を揃えて笑った。
 笑い収めた今岡は、また来るよと手を振って帰っていった。
 葵は手元に残った本を二度ほどめくってから本棚の一つにそっと戻す。本の並びは、主人が出征前に手ずから整えたものだった。いくつか売れていったものを除けば、それはあれからほとんど変わっていない。戦中だけでなく、その後も客足はなかなか戻らなかった。
 日本の敗戦により戦争が終わってまだ二年あまり、焼け出された者もそうでなかった者も、まだゆっくりと本を手に取るだけの余裕が戻っていないということだろう。
 それでも急速に、戦争の匂いは遠のきつつある。
 赤紙一枚で南方の激戦地へ送られることがわかった日、夫は葵に告げた。
 戦争が終われば、きっと本が必要になる。だからこの店をしっかり守ってくれ、と。
 そのときはおそらく、すぐそこまで来ているのだろう。
 けれど葵は、店を守るだけで精一杯だ。
 主がつけた値札はともかく、彼が不在の間に持ち込まれた古書たちは、とりあえずという名目で蔵の中に押し込まれている。その大量の本をどうやって世に返せばいいか、彼女には分からなかった。
 それなのに、激戦地へと旅立った夫の消息は、一度も聞こえてきたためしがなかった。
 桐箱に入った石ころひとつの戦死報告もない代わりに、無事の報もない。この二年間で幾度となく帰港した復員船の中に夫の姿はなかったし、戦友や同僚といった人間がたずねてくることもなかった。
 帰らないのか還れないのか、待つ身の妻には一向にわからなかった。
 そんな中、最後の引揚げ船が南方の国を出港したという記事が新聞に載った。帰港は予定日はもうすぐだ。
 これに乗っていなければもう逢えない。それが分かっていても、一縷の望みをかけて泊地まで出向く気力も勇気も、彼女にはなかった。
 夫が並べていった本の背表紙に指を這わせ、葵は祈るように呟いた。
「お願いします、早く帰ってきてください」



 
 夏が過ぎて秋が来た。
 焼け落ちた家々が建て直される音、ガラクタを解体する槌の音。戦争が遠のいた町には、復興の気配が訪れていた。
 葵は、相変わらず一人で店番を続けている。時期はずれになった軒先の風鈴は、秋風のなか開店を知らせている。
 夫の消息は、分からないままだった。
 復員船が無事に帰着したという記事が紙面を賑わしても、彼女の元には何の知らせも来なかった。最初はあれやこれやと励ましを口にしていた常連客たちも、今ではなにも言わない。
 戦前から政府や軍部に縁のあった義兄ですら無言で首を横に振るのだから、おそらくはもう、という諦観が誰の胸のうちにもあった。
「ありがとうございました。またいらしてくださいね」
 ふらりと立ち寄った初顔の客が、お目当ての本を抱えて出て行く。葵はその背中に手丁寧に頭を下げた。
 振り返って、静かになった店内を見回す。整理と掃除の行き届いた店内には、彼女以外誰も居ない。
 並んだ本の背表紙に一つ一つ指を這わせがら、葵は切ない吐息をこぼした。
 ここ数ヶ月の間に売れていったいつかを除けば、ほとんどは夫が手ずから並べていったままの本たちだ。どこに何があるか、どんな内容か、夫は楽しそうに教えてくれた。その優しい声はまだはっきりと耳に残っている。
 女学校の頃に出会った夫のもとには、ほとんど身一つで嫁いできた。過ごした時間のほとんどが、この店先での記憶だ。
 なのに。
 ほんの少し留守を頼むと、隣町に仕入れに出かけるのと変わらない言葉を残して出て行った彼は、まだ帰らない。
 いつまで待てばいいのかすら誰にも問えない現状に、葵の心は疲れていた。
 この店だけが思い出ならば、いっそ誰の目にも触れさせず閉じてしまおうか――。
 朝の暗い店に下りるたび、そんな考えがよぎる。
 売れていく本に手を伸ばして、それは夫のものだと叫びたくなる。
 先ほどの客が奪って行ったのは、夫が好きだと行っていたイギリスの詩集だった。
 誰か気に入ってくれる人がいるなら話をしたいなと、笑っていた。
 夫が戻るまで待ってください。思わず口をついて飛び出しそうな言葉を、飲み下すのにひどく苦労した。
 疲れているのは、分かっている。あの人が戻ってこない事実を受け入れられなくて、心が悲鳴をあげているのだ。
「今日はお休みにしましょうか」
 葵は誰ともなしに呟いた。
 贅沢に新しいお茶を淹れて、ゆっくりしよう。
 夫がそっと教えてくれた恋愛小説を読み直して、うらやましさに大声で泣くのもいいかもしれない。
 戸口に閉店の札をかけようと振りむいた葵は、影を落とす人に気付いた。
 ひょろりと高い背。どこか頼りな下げナ立ち姿。黒く汚れた陸軍軍服を着て、の大きく膨らんだ鞄を肩から斜めに背負っている。
 逆光に目を眇めて相手を確認した葵は、次の瞬間に走り出していた。
「清臣さん!」
 飛びつく妻を受け止めるように、男は両腕を開いた。
「変わらないね、ここは」
 少しばかりよろけてから、男は言う。
「でも君は――少し痩せたみたいだ」
 妻の顔を、冷たい指先がそっと撫でた。
「苦労させたね。悪かった」
 葵は、子猫が甘えるように首を振った。
「もう、もうお戻りにならにんじゃないかと思ってました」
「悪かったよ。復員船に乗れたのは良かったけれど、ひどい病気を貰ってしまってね。こっちに降りたらそのまま病院送りだったんだ。手紙の一つでも書けばよかった」
「いいんです。帰ってきてくださったのだから、かまいません」
 戦地での苦労と病気のためだろう、覚えているよりもずいぶんと細い夫の身体に、葵は両手を回した。心臓の音と体温は、覚えているままだった。
「ご病気は、もうよろしいのですか?」
「うん、青いの顔が見れたからね。もう大丈夫」
 清臣の言葉に今更ながら赤面した葵が顔を伏せる。と、そのまま暖かい腕に抱きしめられた。
「お帰りなさい、あなた」
 暖かさに溶け出したように、言葉が零れ落ちる。
 一つ口にすれば、あとはもう止まらない。
「お帰りなさい。ずっと待ってました。帰っていらっしゃらないんじゃないかって凄く怖かった。あのね、お店のこととか、本のこととか、お話したいことがいっぱいあるんです」
 清臣は、戦地へと旅立つ前と何一つ変わらない、優しい笑顔を浮かべた。
「そうか、楽しみだね」
 葵はもう一度、これが夢ではないことを確かめるために、強く強く抱きついたのだった。


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