Beats me…

 返答に窮する、ということは多分こういうことだ。

 消して暑くはない三月の喫茶店で、斎藤祐也は額に冷や汗を滲ませていた。
『Beast me. うーん、どう答えていいか分からない時に使う言葉だね。さあね、とか、どうだろうとかいう意味だよ』
 先週職場の廊下で小耳に挟んだ言葉が、頭の片隅によみがえる。けれど気取ってそれを使うには、漂う空気は真剣にすぎた。
「どうなんですか、先生」
「どう、と言われてもね、答えようがないわけで……」
「それってつまり、NO、ってことですか」
 祐也は喉奥で唸って、対面に座る少女から目を逸らした。
 彼女は、祐也の勤める塾に通っていた生徒の一人で、東京の名門大学へ進学が決まったばかりだった。まだ元教え子と呼ぶには微妙な立場の相手と二人きりで向き合っているこの状況からして、祐也にとっては困惑することしきりだった。
「どうなんですか」
 ほとんど責めているのと変わらない口調で、彼女は、中谷志帆は祐也を見つめる。地方都市にあっては“才女”の類に難なく入る学力と、古風な高校のセーラー服に似合うおとなしめに整った顔立ち。才色兼備の言葉になんら遜色のない少女だ。
 その彼女が冴えない塾講師でしかない祐也を呼び出した理由を話したところで、そこに居合わせた誰一人として信じないのではないか。祐也はテーブルに落とした視線を上げないままそう思った。
 今はまだ優等生でしかない、けれど東京に出ればいくらでも飛躍できる可能性を持った少女が、平凡な会社員相手に、愛の告白をしているだなんて、対象である祐也自身もさっぱり信じ切れていないからだ。
「先生?」
「逆に聞かせてくれないかな。なんで、俺なんだろう? 仮にも先生って呼んでくれてる君に告白されて、正直戸惑ってるんだけど」
 祐也は、返事に困った挙句にそう質問した。返答次第によっては逃げ場を失う可能性もあった。逆にあいまいな答えならば、それを理由に突っぱねる心づもりだ。
 そして同時に、本気の疑問も何割か混じっていた。
 祐也はなぜか、この手の年代の少女に人気があった。もちろん冗談十割の告白で、ちょっと優男な年上の男にエスコートされてみたい、そんな興味だけでじゃれついてこられたことは何度かある。現役の塾生ならば後々尾を引かないようにやんわりと断るし、遊びに来た卒塾生ならば状況に応じて一度きりの喫茶店デートに付き合うこともないではない。そしてそういう子どもは、大人にエスコートされて喫茶店で紅茶やパフェをおごってもらう、それだけで十分に満足するのだ。
 祐也は最初、目の前の少女もそれに近い感覚なのだと誤解して呼び出しに応じた。けれどそれが違うということは、もう分かっている。だからあえて、聞いてみた。
「先生の見てる景色を、一緒に見たいと思ったの。世界史の楽しさとか、好きな音楽の話とか。先生が先生じゃない時を見てみたい。一緒に過ごしたい。世界史は勉強できるけど、先生のことは先生にしか教えてもらえないもの」
 志帆は、迷うことなく一息で言った。
 祐也は、あんぐりと開く口をふさぐことができなかった。
 好きな、音楽。
 先生は優しそうだから、という言葉なら、何度も聞いた。そして、そう言った女性は例外なく、優しいけれどつまらない、という勝手な感想を残して去って行った。まじめすぎて面白くなかった。彼が女に振られる理由は、いつも没個性過ぎて笑えもしない。
 あなたに興味があるのだと、そんな風に面と向かって言われたことは、ない。
 けれど、志帆は祐也の困惑など思いも寄らない風に言葉を重ねる。
「先生が、控室で音楽を聴いてるのを見たんです。その時の先生、とっても楽しそうだった。教室でもニコニコしてるけど、あんな顔は見たことない。子供が本を読んで百面相してるでしょ、あんな顔だった。先生がそんな風にのめりこむ音楽が聴いてみたくなったし、そんな顔ができる先生がどんな人か、知りたくなったの。これって、先生のことが好きだってことだと思うんだけど、違うのかな?」
 祐也の、みっともなく口を開いたままの顔が、一気に赤みを帯びていく。
 確かに職場で、購入したばかりのCDを聴いたことはあった。家に帰るまで待ちきれなくて、他に人もいないからと。それを見られていたことの恥ずかしさ以上に、志帆のまっすぐすぎる言葉に、感情がついていかない。
 あなたを知りたい。そんな告白をしてくれる相手に、人生で一体何度出会えるだろうか。
 けれど、瞬きを繰り返す間に、祐也の中で冷静な部分が大きくなっていく。相手の言葉に丸ごと乗るには、少しばかり大人の時間を過ごしすぎている。
「待って。俺に興味があることと、俺を好きだっていうのは別の話だよ」
 志帆は眉をしかめた。
「もしかして、年齢差とか気にしてます?」
「それも、ないとは言わないけどね。君は俺を知らなさすぎる」
「だって、それはこれから……」
「君はこれから大学に行く。東京の、ね。そっちで、いろんな経験をするよ。俺への興味なんか忘れるくらいにね」
「そんなことないです!」
 志帆の唇が反射的に動く。けれど続く言葉は呑みこんだ。そういうところも、彼女は賢明だった。
「――分かりました。4年、4年待ってください。私が大学を卒業しても、先生のこと忘れなかったら、先生のことが、ちゃんと好きだったら。その時にもう一回会いに来ます」
 笑顔で、志帆は立ち上がった。仰いだ祐也に、極上の笑みを落とす。
「でも私、4年後でもちゃんと先生のこと好きな自信、ありますから。その時は、逃げないでくださいね」

 口をつけ損ねたままのアイスコーヒーの氷が、音を立てて溶けた。
 飲む気にもなれないまま、祐也は深いため息を落とす。
 振ったのか振られたのか。遠距離に旅立つことを承知の上で、伸ばされた手を掴めるだけの度胸がなかった。突き詰めて言えばそれだけのことかもしれなかった。
 彼女がもう一度手を差し出してくれるなんて、あり得ない話だったのに。
「勿体なかった、かな……」
 未練を振り切るようにつぶやいた祐也の言葉は、だが4年後に覆される。
 もう一度目の前に現れた、大人になった志帆によって。

 
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