そう易々と妥協はしない

「中司君、あなた大丈夫?」
 カウンターに突っ伏した青年の姿に、麻子は深く深くため息をついた。
 ここは、ひっそりとした路地の地下にある小さなバー。静かにジャズが流れ、初老の主が独りで切り盛りする、常連しか知らない隠れ家のような店だ。
「あ、絹川センパイ、どこ行ってたんすか。お帰りなさい」
 麻子の声に反応したのか、青年がゆらりと身体を起こした。とろんと半眼になった双眸、赤く色づいた頬。これを若い女性がやればさぞや男心をくすぐるだろう夢見心地の表情だ。
「酔ってるわね。もう、自分の限界ぐらい承知してなさいよ。――ごめんなさい、マスター、お水貰える?」
 そんなうっとりした表情に惹かれるわけもなく、麻子は肩をすくめて後輩をゆする。
「帰るまでにちゃんとおきなさいよ。私、あなたを送っていくつもりなんてないんだから」
「何言ってるんですかセンパイ、送るのは男の僕の役目に決まってるでしょう! 夜道なんて危険がいっぱいなんですからね!」
 ろれつの怪しい酔っ払いの訴えを聞き流してスツールに腰を下ろした麻子は、水の入ったグラスを彼の目の前に突きつけた。ガラスにぶつかった氷が、カランと涼しい音を立てる。
「はいお水。私を送るつもりがあるならまずその酔いを覚ましなさい」
 喉が渇いていたのだろうか、彼は受け取った水をほとんど一息で飲み干した。
「いやあ、お止めはしたいんですがね、どうしてもといわれまして。“プリンセス・メアリー”を……」
 申し訳なさそうに頭を掻くマスターの言葉に一瞬眉を跳ね上げてから、麻子は再びため息をついた。
 “プリンセス・メアリー”、チョコレートリキュールと生クリームの甘い口当たりのよさとは裏腹に、ドライ・ジンが入っているぶんアルコール度数は驚くほど高い。甘党で酒に強い彼女が好むカクテルの一つだが、そろそろ限界に近かった中司青年にとってはトドメの一杯になったようだ。
「だからまだ無理だって言ったのに……」
 再び前のめりに突っ伏してしまった後輩を一瞥した後、彼女はマスターに向き直った。
「“アレクサンダー”お願いできる?」
 注文したのは、中司青年を撃沈させたのと同じ材料、ただジンの割合をより高くしたカクテルだ。
「ごめんね、マスター。とめてくれたのにこの子ったら」
「こっちこそ悪かったよあっちゃん。あっちゃんのペースについていける人、最近はトンとみなくなったなあ」
 完全に寝息に変わった客の様子を確認してか、二人の口調が砕けたものに変わった。注文のグラスを滑らせてよこした後は、カウンターの向こう側のいすに腰掛けたようだ。
「そお? でも、うん、そうね。最近の子達は弱いかもなあ……」
 麻子はカウンターに両肘を着いて、唇を薄く笑みの形に吊り上げた。チョコレート色の酒を口に含む彼女の表情は、同じだけの数をあけて完全に沈んだ後輩とは対照的に普段とほとんど変わらない。
「あっちゃん、それ好きだよねえ」
 麻子が手のひらで遊ばせるグラスを指して、マスターが笑った。
「あいつが教えた中で一番筋がいいから僕も楽しみなんだけど、そろそろ他を勧める頃合かな?」
「そう、ね、甘いのなら飲んでもいいかな」
 思わせぶりな問いかけにわざと酔った口ぶりで答え、麻子は頬を支える腕をしどけなく崩した。

 マスターの言うあいつとは、彼女が就職したての頃上司だったある男性のことだ。仕事のやりかたから酒の飲み方まで教える程度には、彼女のことを気に入っていたらしい。マスターと彼女を引き合わせた――というよりは、プライベートで常連だった店に麻子を連れてきたのもその上司だ。
 猫背と眉を下げる笑顔、それからささやくような喋り方が印象的な、社内でも人気者だった。麻子のことを特に気に入っていたことも、麻子が恋心を抱いていたことも、気付かぬ者はいなかっただろう。
 けれどその人は、あっけなく居なくなった。風邪をこじらせて、気付いたときにはもう手のうちようがなかったのだという。突然の死だった。
 誰一人心の整理がつかないまま、彼の死は問答無用に押し付けられたのだ。
「そうそう、いいかなって思えるのが大事なんだよ。――例えば、彼のようにね」
 マスターの視線が、完全に眠りの世界に旅立った青年に注がれた。
 彼が麻子に熱を上げているのは一目瞭然で、麻子のほうもそれを嫌ってはいない。そうでなければこの店に――思い出のあふれるこの場所に、他の人間を誘うことなどしないはずだから。
「うーん、どうしても比べちゃうんだよねえ」
 マスターの言葉の裏を読み取って、麻子は苦笑した。どうやら心配をかけていたらしい、と。
「それは仕方ないさ。ただ、どこかで線を引いてあげないと、彼がかわいそうだよ」
 比べることは出来ても、代わりにはできない。マスターが父親のような顔で笑った。
 麻子は、隣に視線を投げて微笑んだ。
「そう、ね。最低でも私より先に酔いつぶれたりしないこと。――だって、独りで飲むの面白くないんだもん」
 手厳しいねと笑うマスターに、麻子は当然と頷いた。

 どうせなら、そう簡単に妥協なんてしてやらない――。


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