フェンスの向こうの空の色

 縦方向への急速な移動が胃の辺りに不快感をもたらすなんて、初めて知った。否、文献で知識としては得ていた情報を、自分自身の感覚として体験するのは初めてのことだった。
 エレベータが揺れるほどの駆動音とともに、気持ちの悪さは刻一刻と増大していく。速度が遅いわけではないから、要した時間はわずか十秒足らず。けれど体感的には、その何倍もの時間がかかったように思えた。
 アラームと共に扉が開く。そこはもう、石と鉄材とで組み上げられた砦の最上部だった。
「着いたぞ、ボウズ。ここが果ての牢獄さ」
 一緒に乗っていた兵士が、ふざけた仕草で降りろと促した。
 顔をたたく風は、明らかに違っていた。何が、と言えば、その匂いだ。
 焦げた匂い、生き物が腐った臭気。そいういう、いわゆる不快な匂いは、“中央”にはないものだった。
「どうだ、辛気臭いところだろ」
 馬鹿みたいに大きな銃を担いだ男が言う。彼が指し示した先には、瓦礫の山と評するのが恐らくは一番適切な、赤茶けた物体が積み重なっていた。
 その山のあちらこちらから、黄色がかった灰色の煙が立ち上っている。雑多な匂いの元は、そこだろう。
 “辺境”は、いまだに燃料を使っていると知識では学んでいた。けれど、その光景を目の当たりにした今、感じている衝撃はまた違うものだ。
「どうだ、驚いただろう」
 声に振り向くと、初老の男が立っていた。先ほど案内に立った兵士は緊張した面持ちで傍に控えている。その様子と、男の襟元に留められた階級章とで確信する。彼が、この境界の砦を守る部隊の司令官だ。
「驚きました」
 そう答えると、司令官は満足げにうなづいた。そうだろう、彼の望む答えを口にしたのだから。恵まれた“中央”と、その踏み台としてしか存在意義のない“辺境”。その圧倒的な差異を見せ付けることこそが、彼らの目的なのだから。
 “中央”で生まれた子供たちは、皆“中央”のありがたさと“辺境”の生き地獄とを聞かされて育つ。“中央”で生を受けたことの幸運と、その幸運に報いるために働く意義を教え込まれるのだ。
「君の担任から話は聞いているよ。成績優秀、発想力も飛びぬけている。――が、惜しむらくは不要な抵抗心があることだな」
 男が言った。
「君のお父上はそれは優秀な方だと聞く。この――」
 男は、眼下に広がる瓦礫の山を指し示す。
「この辺境から、中央に抜擢されるほどお方なのだからね。その父上の人生を、君は無駄にするつもりか」
 父は、辺境の生まれだった。
 砦の向こうの“中央”に憧れ、死に物狂いで技術を身に着けた、いわゆる“幸運な抜擢者”だ。
 辺境の中の優秀な人間を一握りだけ迎え入れるというのも、中央の政策のひとつだ。権力の根源たる技術力を保つため、そして、僅かな希望と憧れを抱かせ、中央と辺境の力関係をゆるぎないものにするためのものだ。
 けれど父は、中央では底辺の労働者の一人でしかない。
「優秀な君なら、一時の反抗心でこんな場所に放り出されるのが度絵ほど愚かな行為か、わかっているはずだ」
 沈黙をどう取ったのか、男はそう畳み掛けてきた。
 きっと、この場所に立って怖気ああらなかった者はいなかったのだろう。清潔な、整備された安全な世界と、目の前に広がる無秩序な世界とは、それほどまでに落差がある。政府のやり方に、教師から押し付けられる義務と課題に、少しばかり嫌気が差しただけの人間なら、この光景は心を入れ替えると誓うくらいの衝撃をもたらすだろう。
「君を今日ここに寄越した先生方に感謝することだ。君はその目で中央と辺境を知り、君自身の立場を理解することができたのだからね」
「ええ、感謝しています」
「そうか、ならいい」
 素直に従うそぶりを見せれば、馬鹿な男は満足そうな笑顔を浮かば他。
 確かに、ここに来れたことには感謝している。
 今、見えない何かに抗うだけの、敵の定かでなかった苛立ちは掻き消えた。胸の中にあった何かは、辺境への強い憧憬なのだと自覚できたのだから。
 目標が見えた。それだけで、驚くほどに苛立ちもあせりもなくなった。
 けれどその目標は、誰にも知られてはならない。まだ十五の子供に、辺境で独り生きていく力はない。
 けれどいつか。大人になった時には。
 この邪魔なフェンスを乗り越え、向こうの世界で生きてやる。

 エレベータに乗る間際、空を振り仰いだ。灰色にくすぶるその色を目に焼き付けるために。



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