切れた鼻緒を言い訳にして

 仕事帰りの男たちで、大通りはごった返していた。
 冬に向かい日が短くなったせいか、路地の瓦斯灯にはもう青白い炎が点っている。
 レンガ造りの高い塀の向こうは、特需景気を追い風にして雨後のたけのこのように湧いた工場街だ。工夫たちが列を成して、夜昼なく煙を立ち上らせる眠らぬ建物から吐き出されてくる。
 足早に歩き去る彼らは一様に帽子を目深にかぶり、上着のポケットに両手を突っ込んで俯いている。表情が窺えないその黒い群れは、特徴のない人形のようだった。
 その中を、異色が一つ舞っていた。
 濃い緑色の袴に薄い黄色の着物。袴は裾短く着込まれ、かわりに茶色の革靴が足を覆う。
 女学生の出で立ちをした小柄な少女は、薄汚れた労働者たちの好奇の目を集めながら、なんら臆した様子も見せず、つぶらな瞳を前だけに向けて小走りに進んでいく。人の流れに逆らい、ひらひらと身をかわす様子は、生気に溢れた舞のようだ。 
 すぐ先の四つ角から、男が姿を現した。俯いて足元を見ていた男はようやく少女に気付き、おっと低い声を上げた。その横を難なくすり抜けた少女は、だが次の瞬間蹴躓いたようによろけた。二歩三歩と進んでみるものの、やはり元の軽やかさが戻る様子はない。
 少女は、足元に視線を落としてため息をついた。細い足を包む華奢なブーツの紐が、片方切れている。
 赤レンガの壁に身を寄せてしゃがみこみ、彼女は二つに分かれた靴紐を抜き取った。運悪く切れた場所は紐の真ん中あたりらしく、どちらか片方だけで代用するには長さが足りない。
 短い紐を手に、少女は身を起こす。
 暮れ時だった空はもう暗い。さっきまで大通りを埋め尽くしていた人並みは、どこかに失せてしまっている。
 ぽつぽつと瓦斯灯が灯るだけの夜の道に身をすくめ、少女は緩んだ靴が脱げてしまわないようにゆっくり歩き出した。
 暗さを増す小道へと角を曲がり、そして、目を見張った。
 目の前に、人影があった。学生服を襟まできちんと着込んだ、若い男だ。少し伸びた前髪が落ちかかる顔は整ってはいるけれど、厳しく引き締まっている。
 靴紐を取り落とした少女は、大きく目を見開いたまま両手で口元を覆った。荒い息の下、喉奥から零れたのは、けれど助けを求める悲鳴ではなかった。
「どうして――」
「それはこちらの台詞です」
 学生服の青年が彼女の言葉を奪う。
「まったく。この界隈は、お世辞にも治安がいいとはいえない場所だ。貴女だってご存知でしょう。もし万が一なにかがあったら、どうするんですか」
 彼の固い声は、怒りを隠しきれていない。
 それから、男は眉根を寄せたまま片膝をついた。少女の取り落とした靴紐を拾い上げ、街灯にかざして検分する。その視線はすぐにゆるんだブーツにも向けられた。
「あの……」
 己の足を凝視する視線に、立ち尽くしたまま少女は頬を真っ赤に染めた。相手の意図が読めず、動くに動けない。
「貴女が付いてきていたのは、知っていたんです。でも、すぐに飽きるだろうと思っていました。貴女が引き返すように、わざと暗い道を選んだんです。でも、僕は馬鹿でした」
 学生は、少女の足に視線を落としたまま言葉を継ぐ。
「貴女みたいなお嬢さんが、こんなところに居るのは非常にに良くない。途中で、怖くならなかったのですか?」
「あの、私、本屋で貴方をお見かけして、それで、気になって追いかけてしまったんです。あの、どちらに行かれるのかとか、下宿はこちらの方なのかとか――」
 無茶な冒険をした少女の声は、尻すぼみになっていく。消え入りそうな声が最後に、周りは見えなかったんです、と告げた。
 男は呆れているのか怒っているのか、顔を上げようとしない。女学生と跪く大学生、その芝居のような取り合わせに、周囲が不躾な視線を向けてくる。
 少女は、身の置き場をなくして俯くしかない。
「こんな時間になっては、先生もご心配なさっておられるでしょうね」
 学生は、少女の父親である己の師がどれほど気を揉んでいるか想像し、ため息をついた。
 老いて出来た子は可愛いというが、還暦も間近の教授が末の娘を溺愛しているのは周知の事実だ。教え子の学生たちを自宅に招くことはよくあるが、そこで垣間見せる一介の父親の顔は、厳しくも熱心な研究者としてのそれしか知らない新入生を驚かすに事足りるのだ。
「生憎この紐は直せそうにない」
 そう言って立ち上がった学生は、近くを通り過ぎようとした空の人力車を呼び止めた。
「お送りします。帰りましょう」
「でも、あの」
「ここから歩いて帰るおつもりですか? それでは真夜中になってしまう。それに、いくらも行かないうちに靴擦れを起こすのが目に見えていますよ。私が頭を下げます。先生が大目に見てくれるのを期待しましょう」
 人力車の車夫は若い二人連れに胡乱な視線を向けたが、口に出しては何も言わなかった。青年がすばやく握らせた紙幣が、客の価値を高めたようだ。
「父に、怒られたりはしませんか」
「貴女を独り帰したら、それこそ僕は破門されてしまいます」
 青年は少しだけ口端を緩めた。
 押し上げられ視界の高くなった少女は、そんな男の変化にも気付かず身を固くしていた。二人乗りとはいえ、人力車の椅子は狭い。続いて乗り込んできた青年と、身体が触れてしまうのだ。早鐘を打ち始めた心臓の音が聞こえはしまいかと、気が気ではなかった。
 男は、少女の自宅から程近い大通りの名を告げた。さすがに人力車で家の前にのりつけるわけには行かない。車夫は一声気合を入れて、すぐに走り出した。
「もし、私が貴女に気付かずにいたら、貴女は今頃どうしていたでしょうね」
 ガラガラと鳴る車輪の音の陰で、男が尋ねた。え、と横を見た少女とは視線を合わさず、彼は車夫の進む道の先を見つめている。
 自分にに向けられたのかすら定かでないその呟きを、少女は青年の呆れと捉えた。それとも怒っているのか。次々と後ろに流れる瓦斯灯に照らされて陰影の浮かぶ男の表情は、読み取れない。
 風除けに膝にかけた非毛氈の下で、少女はぎゅっと両手を握り締める。
「あの――」
 夜遅くまで帰らなかったことを母に泣かれるより、治安の良くない界隈に足を踏み入れたことを父に叱られるより、彼女には青年の無表情こそが堪えた。
 鼻の奥がつんと熱くなる。泣いてしまうと慌てて瞬きを繰り返すが、こらえきれずに溢れた最初の一滴が、毛氈の上に落ちた。
「だから、僕に用事がおありなら、ちゃんと声をかけてください。時間が許せばお付き合いします」
 けれど、続いた男の言葉は、少女の予想だにしないものだった。
「こんな風にこっそり後をつけてきてはいけません。ちゃんと呼んでください」
 青年の手が、少女の指先を布地ごと包み込んだ。
 思わず顔をあげた少女の前には、おそらくは照れて口元を歪めた片想いの相手の顔があった。
「今日みたいに、僕を心配させては駄目ですよ」
 少女は、涙に潤んだ瞳を細め、強く頷いて見せた。


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