花競り市

 赤や黄色、それに白。色とりどりの花びらが風に舞っている。花通りと呼ばれる大通りに面してところせましと並んだ店先の花篭から、風が吹くたびに花びらが舞い上がるのだ
 アウローラ最大の祭りである花競り市は、この年まれにみる春の嵐に見舞われていた。
 年に一度、春先に開かれる花競り市では、誰もが売り物に好きな値段をつけることができる。もちろん売り手との折り合いは必然だが、気に入った花にこれぞという値を張り、ライバルたちの鼻先で競り落としていくのが祭りの醍醐味だった。
 豪華な花篭ひとつに、どれだけの高値がつくだろうか。それを楽しみに、競り人だけでなく多くの見物客が集まってくるのだ。
 またしても唸りをあげて突風が駆け抜けていった。通りのあちこちに極彩色の竜巻が起き、悲鳴と歓声が入り乱れた。
 ソールは、空に駆け昇る虹色の風を見上げる人々の間からようやく抜けだした。右から左からもみくちゃにされた小さな体で、ふうと息をつく。知らず張っていた肩が落ちると同時に、疲労が涙となって一粒こぼれた。
 彼女は慌てて、拳に握った小さな手で頬を拭った。
 待ちに待った花競り市に来れたというのに、人混みに驚いたくらいで泣くなんて情けない。そう言い聞かせてみても、涙はなかなか止まらなかった。
 大通りの方から誰かの叫び声が聞こえてくる。内容は、耳を疑うような高値の競り合いだ。
 冠のように花を広げた蘭の鉢植え一つに、百万、二百万の値が付けられていく。それは、ソールの家族が一年以上、遊んで暮らせるほどの大金だ。
 青みがかった紫色のバラは、それこそ眼の飛び出るような金額で金持ちのものになった。
 ソールは、ポケットの中でたった一枚の白銀貨を握りしめた。それは、目の前でやり取りされる学の百分の一はおろか、一万分の一にも満たない額だ。ソールが一年間駆けてようやく貯めたものではあるが、この場所ではほとんど無価値に等しかった。
 勇んで家を出るときに兄が言った、呆れたような言葉が耳によみがえる。
『なにもわざわざ市まで行かなくても、ちゃんといいものが買えるだろう。値が高いからって価値があるとは限らないんだぞ』 
 兄の言葉は正しかったと、今ならわかる。
 朝のソールの心は、国一番の花市で買ってこそ贈り物に価値がでると、その思いに凝り固まっていた。
 けれど、ここに彼女の欲しいものはない。少し綺麗なもの、見栄えのするものならたくさんあるけれど、より高値で競り落とすことに意義を与えられる商品と、彼女が探しているものは絶対にちがうのだ。
 唇をかんで、ソールは心を決めた。
 帰ろう。帰って、近くの花屋で、自分が満足するものを作ってもらおう。
 歩きだした背に、またひとつ高値をつけた道楽人を讃える歓声がどっと押し寄せた。

 大通りを逸れても、花を並べる屋台は途切れなかった。
 目玉となる花は数段値をおとし、店主と客とが笑いを交えたやり取りを繰り返している。
 きっと最初にこちらの店に立ち寄っていれば、ソールとて花競りを楽しめたかもしれない。けれど、少女は鮮やかな色から眼を逸らして足を早めた。駆けてしまえば、鼻の奥からせり上がってくるつんとした涙を押さえ込めるような気がした。
 その足が、角を曲がったところで止まった。
 黄色。鮮やかな、鮮やかな黄色。
 それが、路地の片隅にあふれんばかりに咲き乱れている。思わず、目を奪われたのだ。
「うわあ、綺麗……」
 地面に無造作におかれた汚れたバケツの中から、黄色い花は花弁一枚一枚をぴんと伸ばして精一杯に太陽を仰いでいた。
「綺麗だろう」
 声をかけられ顔をあげたソールは、ぎょっと身を竦ませた。
 店というには粗末な、木の支柱に布の天幕を張っただけの陰の中に、男が座っている。くたびれた軍服を纏う、一目で傷痍軍人とわかる出で立ちの男だった。
 顔の右半分、額から顎にかけて一本の傷が走っていた。傷に分断されているだろう右目は、黒い眼帯のうちに隠れて伺えない。残った左目が、興味深そうにソールをみつめていた。
「あ、あの……」
 あからさまに驚いた態度を取り繕おうとして言葉を探すソールを見て、男は傷にめくれた唇を恐らくは笑みの形に動かした。驚かれるのには馴れている風だ。
「驚かせて悪かった。好きなだけ見るといい」
「ありがとう」
 ソールは、赤くなった顔を隠すようにうつむいた。
 その視界を、黄色く花が埋める。
 小さな花弁を、ぐるり輪を描くように広げた花。
 それは、真夏に大輪を咲かせる向日葵に、よく似ていた。
 けれど、向日葵はソールの膝丈ほど小さいはずもなく、何よりもまだ山に雪の残る春先に咲く花ではない。
「これは、ひまわりなの?」
「いいや。違う花だ。でも、似てるだろう?」
 男は、縁の欠けたバケツから花を一本抜き出した。
「俺も初めて見たときはそう思った。こいつが雪の中から顔を出してるのには驚いたよ。でも、真夏にならないと大きくなれない向日葵よりも、こっちの方がたくましいと思わないか?」
 ソーラは、差し出された花を受け取った。花弁も葉も、茎も力強くぴんと伸びている。
「これ、雪のなかで咲くの?」
「そうだよ。真っ白い雪の間に凛と咲いていて、そりゃあまぶしかったな。こいつのおかげで、戦場から生きて帰る気力をもらったんだ」
 ソールは眼を見張った。
「見てのとおりの大怪我で、おまけに雪の降る日だった。このまま死ぬんだと覚悟していたのに、こいつのおかげでもう一回太陽がみたくなった。あの時諦めなかったから、今生きているんだろうな」
 戦場からの帰還兵は、顔に刻まれた傷をなで、少し恥ずかしそうに左目を細め笑う。
「戻ってきても、この黄色が忘れられなくて、居てもたっても居られなくなった。何とか種を探して、こうやって育ててる。何てことない花かもしれないが、お嬢ちゃんのように綺麗だと言ってくれる人がいて、嬉しいよ」
「あの、あのね」
 つられたように、ソールは小さな胸に息を吸い込んだ。
「私、ブーケを作るお花を探してるの。この花なら、きっと喜んでくれると思うの」
 ドキドキする胸を押さえて、言葉を紡ぐ。
「だから、あのね。おじさん、このお花、私に売ってくれますか?」
 男の左目が、いよいよ細くなった。
「もちろんだとも。さあ、好きな値段をいってごらん。欲しい人が値を付けるのが、花競り市の約束だからね」
 ソールは、白銀貨を握った手を差し出した。
「あのね、私これだけしか持ってないの」
 温もった硬貨が、男の堅い手のひらに乗る。
「何がこれだけなもんか。お嬢ちゃんが一生懸命貯めたお金だろう。喜んで売らせてもらうよ」
 男は、バケツいっぱいの花を全部、ソールの腕に抱えさせた。
「これだけあれば、どんな大きなブーケにだってたりるだろう。 ところで、ブーケを贈るのは、お姉さんかい?」
 黄色い花に埋まったソールは、少し迷ってから首を振った。
「ううん。私のね、お母さんになってくれる人にあげるの」
 若くして妻を亡くし、ソールと兄を一人で育てて暮れた父。その父を好きになってくれた人。そして、ソールと兄の、お母さんになってくれる人。
 その人に、綺麗なブーケで精一杯のありがとうを伝えたいのだ。
「そうか、それはいい。きっと喜んでくれるよ」
 男は、笑顔でソールを手招いた。
「いい子に、俺から一つプレゼントしよう。もう少し暖かくなったら、播いてごらん。きっと綺麗に咲いてくれるから」
 小さな皮袋を、ソールのポケットに落とし込む。中身はきっと、黄色い花の種だ。
「ありがとう!」
 ソールは笑った。眼帯の男のぎこちない笑顔は、もうちっとも怖くない。
「そうだ。お嬢ちゃん、よかったら君の名前を教えてくれないか?」
「ソール! お父さんがつけてくれたの。あのね、昔の言葉で、太陽って意味なんだって!」
「そうか、太陽か! いい名前だな。大事にするんだぞ」
「うん!」
 花を抱えて両手がふさがっているソールは、バイバイと元気に叫んでから駆けだした。
 通りを抜けていく足取りは、少し前とは比べものに鳴らないほどに軽やかだ。
 遠ざかる黄色い花束を見送った男は、立ち上がって空になったバケツの水を捨て、それから、晴れた空にむかって満足そうに一つ背伸びをした。

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