手を取る走る逃げ延びる

「友子、逃げるよ!」
 廊下を走る賑やかな足音とともに名前を呼ばれて、あたしは顔を上げた。それから、笑顔で手を振りこちらにアピールしてくる親友の姿を発見し、重く重くため息をついた。
 あたしは、図書室から借りた読みかけの本をかばんに突っ込んで立ち上がる。毎日の恒例行事になっているからか、廊下に出ていたほかの生徒たちが一斉に壁際に逃げた。モーセの海割りのようにざっと開いた道が、なんだか悲しい。疾風をつれて横を駆け抜けた親友に一拍遅れて、あたしも走り始めた。
 廊下の突き当たりの直角カーブを無理やりに曲がりきって、昇降口に一番近い階段を目指す。階段を上ってきた下級生の男の子が、ぎょっとした顔になって壁にはりついた。
「ごめんね、ありがと!」
 すれ違いざまにお礼は言うけど、勢いは緩めない。一つ下の階につく手前で、上からなんともいえない悲鳴が聞こえてきて、あたしは心の中でその子に詫びた。
「原田! いい加減逃げるんじゃない!」
 階段を降りきる寸前に、上から怒声が降ってきた。
「ゴメン先生、ソレ無理!」
 それに平然と怒鳴り返すわが親友は、結構なツワモノだと思う。
 校舎を飛び出したあたしたちは、まっすぐに正門を目指した。慣れの怖さというか、もう追いつかれる心配がないと分かってしまうから、自然とスピードは緩む。
 二人並んで校門を越えクルリと振り返ると、丁度“彼”が昇降口に姿を見せたところだった。毎度ながらタイミングがいい。
「先生、サヨナラー! また明日!」
 その、肩で息をする教師に容赦なく手を振った親友の表情は、なんとも言えず晴れやかだった。


「ねえ亜季子さぁ……」
 コンビニで買った紙パックジュースを二人仲良く飲みながら駅へ向かう帰り道、あたりは隣の親友に聞いてみた。
「あんたいつまで鬼ゴッコするつもりよ? いい加減補習受けるか課題提出したら?」
「えー、そんなことしたらツマンナイじゃん。てか補習に呼ばれなくなるじゃん。それじゃ意味ないよお」
 あっけらかんと言い放つ親友に、一応ツッコミは入れておくべきだろうか。
 あたしは空を見上げてため息をついた。
 彼女の逃避行の理由は補習。夏休みの宿題を綺麗にすっぽかし、いまだに未提出なのが彼女だけなのだから補習を食らうのはある意味当然だ。
 けれど彼女の場合、なぜすっぽかしているのか、が一番の問題だったりする。
「つか、呼ばれたいなら受けてくればいいじゃん」 
「いーやあ! 個人授業だなんてそんなハズカシイことできない!」
「だったら課題出せ課題」
「そしたら補習呼ばれなくなるんだってば!!」
 堂々巡りの問答に陥って、あたしは頭が痛くなった。
 ジュースの紙パック、握りつぶすならせめて飲み干してからにしてほしい。
 亜季子は実際のところ補習を受けること自体が嫌なわけではないのだ。そもそも、補習に呼ばれたいという目的で宿題提出をすっぽかしたのだから。
「つか、あんたの場合、目的と手段が間違ってるから」
 そう、彼女はただいま恋の真っ最中。お相手は、今年赴任してきた新米の数学教師。さっきの鬼ごっこの犠牲者だ。
 あたしにとってはひょろっとして気の弱そうな情けない印象の男でしかないんだけど、彼女にとっては好みどまんなかだったらしい。四月の一目ぼれからこっち、延々と「かわいい」を連呼するのはとりあえずいまだ理解できていない。
 そんな彼女が行動を起こしたのは、この秋のことだった。
 前述のとおり、夏休み課題を見事にすっぽかしたのだ。それも、数学だけ。
 けれど補習で親近感アップでも狙っているのかと思えばそうではないらしい。彼女いわく、乙女心のなせる罪、とのことだ。
「逃げててどうすんのよ、いい加減補習受けて来い。二人っきりになりたいからとか言ってたの誰よ?」
「ダメ、無理、そんなことしたらアタシ心臓発作で死ぬ!」
 つまりは、見事補習に呼ばれたはいいものの、恥ずかしさで恋にトキメク心臓がもちそうにない、ということらしい。
 いや、あたしとしてはそもそも根本から間違ってると思うんだけど。
「あんた数学得意じゃん。それがわざと宿題ださないわ補習逃げるわって、フツーさ、それ新米教師イジメの方法だから。嫌われるんじゃない、下手したら?」
 疑問をぶつけてみたら、彼女はでもお、と首を傾げた。
「だってフツーに提出したら、タダの一生徒じゃん。印象残んないじゃん!」
 だったら印象残る方選ぶ! と拳を握っての決意は、ある意味尊敬すべきなのかもしれない。……いや、どうだろう。
「……明日も逃げるの?」
「もちろん!」
 聞けば即答が返ってくる親友の顔を見て、あたしは肩をすくめた。新米教師の受難は、まだまだ続くらしい。
 
 

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