七月の雨なら

 ホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴った。放課後という自由時間の始まりの合図の割に生徒たちの足取りが重いのは、雨粒が目視できそうなほどの土砂降りだからだろう。
 部活にいくにも帰宅するにも二の足を踏むクラスメイトたちの間を縫って、夏樹は廊下にでた。
 掃除当番の誰かが開けた窓から、湿った風が吹き込んできている。六月から降り続く梅雨の雨は、いっこうに降りやむ気配をみせない。
 夏樹は、ひとしきり外の様子を眺めてから、傘立てから一際大きな雨傘を引っ張りだした。
「お、天原、もう帰るんだ? 今日の掃除当番代わってもらおうと思ってたのに」
 教室から顔をのぞいたクラスメイトが、箒を掲げた。
「俺さ、今日部室の準備当番なんだよな。缶ジュースおごるから、代わってくれね?」
 片手拝みに頭を下げるのは、野球部期待のエース候補だった。
 入学以来帰宅部で通している夏樹は、こんな風に当番代行を頼まれることも珍しくなかった。昼のパンだったりジュースだったりが、お互いにちょうどいい手間賃だ。
 けれど、今日の夏樹は首を振った。
「ごめん。今日は無理」
「何だよ? 外、土砂降りだぜ?」
「ちょっとね、用事があるんだ。それに、七月の雨なら、嫌いじゃないんだよ」


 校門から続く坂道を、夏樹はどんどん上っていった。目の前に一枚薄布をあてがったように煙る雨が、視界も音さえも吸い込んで、世界を包み込んでいる。
 小学校の正門をすぎた頃から、坂道はどんどんと勾配をきつくしていく。
 けれど夏樹の足は、一定のテンポを崩さない。大人二人が難なく肩を並べられそうなほどの大きな傘は、雨などものともしない。くるくるくるくる、夏樹が柄を回すたびに、雨粒はあっさりとはじきとばされてしまうのだ。
 水色の傘に視界を切り取られていた夏樹は、しばらくして足を止めた。傘を傾けてあたりを見回す。そこはもう、住宅街の合間にとりのこされた小さな森の入り口だった。
 夏樹は、迷うことなく道を右に折れ、その森に踏み込んだ。明らかに通いなれた足取りで、うっそうと枝を広げる木の間を進んでいく。
 森の中では、雨はさらに粒を細かくし、ほとんど緑を溶かし込んだ霧のようだった。
 どこかで鳴く鳥の声も、草を踏みしめる足音も、風が揺らす梢のざわめきも、すべて霧が吸い込んでしまう。
 けれど、夏樹の歩みは止まらない。あるかどうかもわからないような脇道を二度ほど曲がり、それからようやく足が止まった。
 彼の唇にはっきりとした笑みが浮かんだ。
 次の瞬間、風が吹き抜けた。重くよどんだ霧を散々に追い散らすほどの突風だ。
 唸りをあげる風が消えた後には、僅かに開けた空き地と、古びた東屋が一棟姿を表した。
 東屋のベンチは、吹き込んだらしい雨で少し湿っていた。それを軽く払って、夏樹は腰を下ろす。屋根はところどころ傷んでいるらしく、隙間をすり抜けた雨粒が背中を濡らした。
 夏樹は一度閉じた傘を開きなおした。柄を肩にかければ、傘は背負うような格好になる。半分体を埋めたまま、彼は鞄から取り出した文庫本を読みはじめた。
 雨粒が傘の上で跳ねる音と、本をめくる音だけが静かな空き地に響いている。
 それからしばらく。
 不規則に跳ねる雨粒に混じって、少しばかり重い何かが落下してきた。それは、広い傘の上で二度跳ねてから、東屋の端に着地した。
「やあ、一年ぶり」
 夏樹は本から顔を上げ、それに笑いかけた。
「今年はやけに遅かったね」
「仕方なかろう。梅雨が一際強くてな」
 小さな何かが答えた。それは、真夏の青空を飲み込んだような色の、蛙だった。
「少年、お前も律儀だな。もう十年になるだろう?」
「そんなになるかなあ?」
 夏樹は、喋る蛙に驚くこともなく、思案顔に指を折った。
「小学校の時だから……、あれ、ホントだ。ところで、いい加減俺の名前覚えてよ。じゃないと、カエルって呼ぶよ」
「カエルじゃないわい! カエルムだと言っているだろうが!」
 カエル、の一言に反応して、青色の蛙が怒鳴った。
「わかってるってば。変な名前で呼ばれるのがイヤならわかるでしょ。俺も少年ってのはなんかイヤなの」
「お前は少年で十分だ! まったく、ニンゲンというのは、図体がでかくなるのだけは早いのだな」
 夏樹は肩をすくめた。その唇には、やはり笑みが浮かんでいる。
 カエルム、がラテン語で空を意味することを、今の夏樹は知識として知っている。けれど、初めて青色の蛙と出会った日に、どうしてもカエルと呼んでしまって、怒らせたことを覚えている。
「ねえ、カエルム。彼女は?」
「そんなにアレが心配か?」
「うーん、心配というか、昔の失敗続きを知ってるからさ。どうしても気になって。今年はずいぶん遅かったし、手こずってるのかなと思ってさ。少しは上達してるの?」
「なったわよ! 失礼ね!」
 カエルムが答えるよりもさきに、遠くから怒鳴り声が響いた。夏樹が顔を上げる。その視線の先、空き地と森との境目辺りに、少女が一人立っていた。
 長い髪を耳の上あたりでツインテールにした少女の、ワンピースもブーツも、手に持った傘さえカラフルな虹色だった。
「アルクス、久しぶり。元気そうだね」
 虹の名を持つ少女は、夏樹をにらみつけ、大股で近寄ってくる。
「あたしはね、昔みたいな落ちこぼれじゃないの! ちゃんと一人前になったの! そこでありがたく見学していなさい!」
 威勢の良い言葉とともに、少女は傘を振った。ポン、と音を立てて開いたそれは、そのまま地面に置かれる。夏樹の傘に負けず劣らずの大きな傘は、自分の重さに負けたように柄を空に突き上げた。虹色とは対照的な、薄墨色の裏地が見える。
 柄を握って傘を固定したアルクスは、雨雲が暑く垂れ込める空を睨みあげ、二言三言、声を発した。
 それはまさに、呪文だった。
 アルクスの周りを、風が取り巻き始める。それは瞬く間に高く唸りをあげる突風に変わり、ついには渦巻くまでに成長した。
 周囲の青葉をちぎらんばかりに揺さぶる風は、少女の指先に操られるように上空へと駆け上がる。
 風が、否、竜巻と言っても過言でないほどの突風の語りが、垂れ込めた雨雲に挑みかかった。鉛色の雲は、身震いした。
 最初こそはじき返されるかに見えた風は、少しずつ、しかし確実に雲を動かし始める。やがて雲は吹きちぎられ、千々に分かれた。その一片一片を風が飲み込み、くるくると鉛色の渦を作る。
 ざわめく空の様子を伺っていたアルクスが、今度は風を手招いた。
 風は訓練された猟犬のように従順に、渦巻きながら戻ってくる。その身に飲み込んだ雨雲を引き連れて。
 小さな空き地は、嵐のただ中に放り込まれたようなさわぎになった。何もかもがもみくちゃにされる。ただ、風を操る少女と、空色のカエルを膝の上に載せた夏樹の周りだけが元のように静かだった。
 吹きおろす風は、しばらく唸りをあげて暴れ回った。アルクスはその暴れ具合と空の様子とに交互に視線を投げていたが、左手で支え続けていた傘をそっと傾けた。
 風が、その小さな傘めがけて集まってくる。傘は少女に支えられて、風の体当たりにもびくともしない。
 うなる風たちは、あっと言う間に、すべて傘の中に飲み込まれてしまった。
 アルクスが、傘を閉じる。
 もう、風はそよとも吹いていない。相変わらず薄灰色の空には、雨雲の欠片も残っていない。
「カエルム!」
 少女が呼んだ。呼ばれた蛙は、夏樹を振り仰いでニヤアリと笑った。
「やれ、ようやく出番だ」
「行ってらっしゃい。頑張って」
 カエルムは、三度跳ねただけでアルクスの足下にたどり着く。そのままの勢いで、差し出された手を踏み台に、少女の頭の上に着地した。
 カエルムの口が、カパっと音を立てて開く。体の半分くらいにまで広がった口からは、体色と同じ真っ青な光が吐き出された。
 光は見る見る上昇して、空を青色に塗り替えていく。
 カエルムが最後の一息を吐き出すのを合図に、少女が閉じた傘を振る。軌跡はそのまま、青空にかかる虹になった。
 先ほどまでの梅雨空は失せ、今そこにあるのは、吸い込まれそうな夏空だ。
「どう、完璧でしょ?」
 アルクスが夏樹を振り返った。満面の笑みに、自信があふれている。
「うん、すごい。見違えた」
 要らなくなった傘を閉じながら、夏樹は答える。
 初めてこの場所に迷い込んだ時に出会った、泣きべその少女はもういないらしい。
 彼女はもう、風にそっぽを向かれることも、雨雲に意地悪されることもない、立派な夏喚びなのだ。
「もう俺が居なくても大丈夫だね」
「ダメよ!」
 来年からは、と言いかけた夏樹の言葉を遮って、アルクスが叫ぶ。
「ちゃんと見てるって約束したでしょ! あなたはね、あたしの成長を見届ける義務があるの!」
 偉そうな口調だが、その顔は隠しようもなく赤い。
「やれやれ、とんだお守り役に選ばれたな、少年。さっさと逃げんと、お前が死ぬまでつきあわされるぞ」
「カエルムうるさい。 いい、夏樹。来年こなかったら承知しないんだからね! あなたの上だけ梅雨を残したままにしちゃうから!」
「こら、アルクス。そんなことを言うとると、また問題児扱いされるぞ!」
 空色の蛙が、呆れたよう叱りつける。
「いいよいいよ、夏が来てくれないのは困るしね」
 夏樹が気にした風もなく笑う。そして、照れた末にそっぽを向いたままのアルクスに声を投げた。
「じゃあ、また来年」
 
 その日、ニュースでは少し遅い梅雨明けの話題が取り上げられた。

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