誰がために鐘は鳴る

 時間厳守、それが彼女との約束だった。
 毎回のようにデートに遅れる僕に、彼女は内心呆れていたのだろう。仕事の都合でやむなく遅れることもあったが、遅刻の原因の最多理由が寝坊だったのだから言い訳の仕様はない。
『私とデートする日に寝坊するなんて、よっぽどお疲れなのね? それとも、私と一緒に居ても楽しいと思わないから目が覚めないのかしら?』
 三回連続で寝坊した日、跳ね放題に跳ねた僕の寝癖を冷ややかに眺めながら呟いた彼女の台詞が忘れられない。謝り倒して次のデートの約束を取り付けることができたのは、一月以上たってからだった。
 そんな僕でも、もちろん彼女を愛していて。
 結婚のための準備をこっそり調えながら、先日プロポーズのためのデートを取り付けた。
 待ち合わせ時間は、午後6時50分、場所はとある教会の前。中途半端な時間なのは、“午後7時に鳴らされる鐘の音を聞きながらプロポーズすれば、そのカップルは必ず幸せになれる”というジンクスを狙ったためだ。ベタすぎるシチュエーションにはなるが、僕がどうしてもそれにこだわりたかったのだ。毎日正確に鳴らされる鐘に、願をかけたかった。 
 彼女も、たぶんある程度の予想はついているのだろう、いつになく真面目な顔で、時間厳守を条件にOKしてくれた。
 ああ、それなのに。僕は今、必死の思いで走っている。
 
 絶対に遅刻できない今日のデートのために、僕は綿密なプランを立てた。起床から始まって、僕の遅刻癖を考慮したうえでも待ち合わせ時刻30分前には教会についている完璧な計画――のはずだった。
 実際、朝は一度だけ二度寝をしてしまったが、30分ほどのタイムロスで目が覚めた。これは、僕にしてはまずまずの滑り出しだったと思う。それからシャワーを浴びて着替えをして――このとき、前夜完璧にコーディネートしたはずの服を、もう一度悩んでしまったのが最初の躓きだったのだろうか。
 クローゼットの中身を全部ひっくり返して、結局最初の組み合わせで決着がついたときには、もう昼が目前だった。
 慌てて教会への道筋にある花屋に電話を入れて、花束の予約をした。昼食を済ませて散らかった部屋を片付け終わったのが午後3時。彼女に贈る指輪を何度も確認しつつ荷造りをして、万一のために五時前には家を出た。
 30分どころか1時間前には教会につける時間の余裕が仇になったのか、花屋でブーケの作り直しを依頼したのがマズかったのか。
 気付いたときには、僕の尻のポケットで携帯のアラームが6時30分を告げていた。

 教会まであと角2つ、日ごろの運動不足がたたったのか、息は完全に上がっている。7時5分前を告げるアラームはもうなり終わったから、遅刻は確定している。鐘がなるタイムリミットまでももうギリギリだ。
 なんでこうなるんだ、と愚痴を吐く余裕もなく、僕は最後の力を振り絞って最後の角を曲がる。目の前にそびえる教会の塔、最上部の鐘楼には、鐘を鳴らすための人影がすでに登っているようだ。
 教会の入り口には、最愛の人。腕時計に落ちていた視線が、僕を見つけて呆れたように眇められたのが分かった。あと300メートル。ご立腹は確実のようだ。
 彼女が鐘楼を振り仰ぐ。つられて僕も視線を上げた。
 その瞬間、鐘の下にある大きな時計の長針が、無常にもかちりと頂点を指した。


 タイムリミット――。


 思わず立ち止まりそうになるほどの脱力感が僕を襲う。
 なのに。鳴り響くはずの鐘の音が聞こえない。
 彼女も不審に思ったのか、自分の腕時計と何度も見比べている。その間に、僕はようやく彼女の前にたどり着いた。
 とたんに、頭上からすんだ鐘の音が降り注ぐ。
 思わず見上げた視線の先で、聖職者にしてはガタイのいい、髭面のオヤジが――いや、このときばかりは救いの天使に見えた――にやりと笑って親指を立てていた。



 マッチョな天使に見守られた僕の、一世一代のプロポーズ。
 それがどうなったかは、二人だけの、いや三人だけの秘密にしておくことにする。
 

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