花信

 真夜中の部屋に、キーボードを叩く音が響く。電気を消し、カーテンを閉め切っている部屋の中、唯一の光源であるパソコンのディスプレイの青白い光が、青年の顔を浮かび上がらせている。
『かすみ様
 今日は、川べりに散歩にいきました。土手に、菜の花が綺麗に咲いていました。あなたと良く散歩した頃には、まだ気配もなかったですね。
 時間の速さにびっくりしています。
 少し、寂しくなってしまいました。
 早く、逢いたいです。
                まさき』
 リズミカルな指の動きが、メールフォームに文章を打ち込んでいく。
 最後に鮮やかな黄色が満開の写真を添付し、一瞬息をつめて送信ボタンをクリックした。
 一拍置いて、画面が送信完了を知らせるものに切り替わる。
 青年の表情が、少し寂しそうに曇った。
 その足元に、柔らかいものが擦り寄ってくる。茶色い冬毛をふさふさとさせた柴犬の子犬が、心配気に飼い主を見上げている。
「お前も寂しいよなあ。香澄、早くかえってこないかな?」
 子犬は首をかしげ、同意するようにヒャンと鳴いた。


『かすみ様
 今、近所の公園の桜が満開です。週末には、宴会のにぎやかな声が聞こえてきます。
 そちらには、桜が見れますか? また一緒にお花見がしたいです。
 はやく会いたいなあ。
                    まさき』
 開いた窓からは、まだ少し冷たい春風と一緒に、にぎやかな笑い声が吹き込んでくる。
 青年はそちらに一瞬視線を向けてから、メールの送信ボタンを押した。
 軽やかなポップ音とともに、画面が送信済みのメッセージに切り替わる。
「あーあ、なんかさ、情緒がないよね」
 呟いた声に返事はない。足元では、子犬がおもちゃのボールごと、敷布に埋もれるようにして健やかな寝息を立てていた。


 スイッチを入れると、電灯はちらちらと瞬いてから黄色く点灯した。
 傘をさすには微妙だった霧雨にしっとりと濡れた上着を脱ぎ捨てた青年は、ふっとため息をついた。
 空腹を訴える犬をなだめながら、視線は知らずパソコンに向く。
「ちょっと待ってな」
 我慢できずにパソコンの電源を入れる。起動音は賑やかなくせに、数年来使い込んでいるパソコンの動きは遅い。
 なかなか起ち上がらない画面に苛立つ間にも、愛犬は食事を催促して鼻を鳴らし始めた。
「ごめん、今支度するから」
 一瞬未練がましい視線をパソコンに投げてから、青年は犬を連れてキッチンに向かった。
 自分の食事を後回しにして戻ってきた青年は、メールソフトを立ち上げて瞠目する。
 未読メール一件、の表示に、ためらうようにマウスポイントがさまよった。
 メールの差出人欄の表示は、かすみ。青年は一瞬のためらいを振り切るようにクリックした。
『明日、ドイツに出発します。その後は、イギリスまで足を伸ばす予定。
 落ち着いたらまたメールします。
                 かすみ』
 表示された文面は、そっけないほどに短かった。
 食い入るように読んでいた青年の顔が、泣き笑いの表情になる。
「香澄、今度はドイツだって。まだ当分帰ってこないなぁ」
 満腹になった子犬が遊んでとボールを咥えて擦り寄ってくるのを、青年は半分無理やりに抱き上げた。
 冬毛が抜けて幾分かすっきりした茶色い背中に、顎を埋めるように抱きしめる。
 しばらくはおとなしく抱えられていた子犬は、やがて身を捩り始めた。
「お前も冷たいよなあ」
 腕から脱出した愛犬にため息混じりに呟くと、子犬からは非難のこもった視線が返る。
 愛犬にも振られた青年は、肩をすくめてからパソコンに向き直った。
『かすみ様。
 メール読みました。
 そろそろドイツについたころでしょうか。そちらは、どんな天気ですか?
 日本は梅雨に入って、一週間くらい太陽を見ていません。夜の散歩も憂鬱で、少し運動不足でし。
 そうそう、昨日、紫陽花が咲いているのを見かけました。紫や青に混じって赤い紫陽花がありました。赤って珍しいんだったよね?
 かすみに見せたいけど、運悪くカメラを持っていなかったので写真はありません。ごめんなさい。
 紫陽花はきれいだったけど、やっぱり雨は苦手です。はやく夏にならないかなあと思っています。
 今年も、近くの神社で夏祭りがあるみたい。
 そのころに帰ってくるなら、一緒に夜店に行きたいな。
                      まさき』



『かすみ様。
 日本は毎日、真夏日の記録を更新中です。イギリスも案外暑いって聞くけど、夏バテしていませんか?
 昨日は花火大会でした。賑やかで楽しかったけど、かすみがいないのはやっぱり寂しいです。
 そうそう、佐藤とか高橋に会いました。あいつらも元気でしたよ。
 かすみがずっといないのを知って、びっくりしていました。
 話の流れで、来週の土曜にひまわり畑を見にいくことになりました。男ばっかりで行くのは色気もへったくれもないけど、きれいな写真が取れたら送ります。
 かすみと花火みたかったなぁ。
 そろそろ寂しくて死にそうです。
                      まさき』


 秋風がそろそろ冷たいと思い始める十月の終わり、青年はアパートの前で人待ち顔に佇んでいた。
 足元では、もう子犬というには大きくなった愛犬が、暇だと言わんばかりにあくびを繰り返している。
 散歩にはいつもの倍ほど時間をかけた分満足そうではあるが、一向に家に帰ろうとしない主人を、時折不思議そうに見上げている。
「もう少し我慢な。今日は、香澄が帰ってくるんだよ」
 そわそわと落ち着かない青年は、そう言って嬉しそうに笑った。
 そして、秋の日が沈み始めたころ、ようやく青年の待ち人が姿を見せた。
 バス通りから、一目で旅行帰りと分かる人影が、大きな荷物を引きずって歩いてくる。
「香澄!」
 青年が呼ぶと、人影は答えるように手を振った。
 丸くなって眠ってしまっていた犬を起こして、青年は人影に向かって走り出す。
 香澄は、荷物から手を放してその場に膝を着いた。
「まさき! ただいま!」
 とたん、茶色の塊が弾丸のように飛び出した。青年の手を離れ、一目散に香澄に向かって走っていく。
 香澄も、両手を広げてその塊を抱きとめた。
 熱い抱擁を交わす一人と一匹に、青年が遅れて近づく。
 けれど、香澄は顔を上げない。顔中を舐められるに任せながら、茶色い身体を撫で回している。
「ごめんね、まさき! 寂しかったねー! 明日からいっぱい散歩しようね!」
 まさきは、千切れんばかりに尻尾を振ってそれに答えた。
「あの、香澄?」
 青年が、情けなく眉尻を下げる。泣きそうな声での呼びかけに、香澄はようやく顔を上げる。
「自分の名前で寂しいがいえない人なんて知らない。ずーっとメールくれてたのは、まさきでしょ」
「――ごめん! 寂しかった! 俺がすっごく寂しかったの!!」
 悲鳴のように青年が訴えれば、香澄はようやくにこりと笑った。
「ただいま、あきら」



 

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