廻る季節の片隅で

 私が覚えている最初の記憶は、赤と緑のコントラストだ。もう少し真剣に記憶にもぐれば、太鼓の音や高い笛の音、それからシャンシャンと打ち鳴らされる鉦の響きがよみがえるから、それはどこかのお祭りの風景なのだろう。それと、今にも飲み込まれてしまいそうな人の海。小さかったはずの私がそれを覚えているのだから、きっと父の肩に乗せてもらって見た風景のはずだ。
 うちの近所であんなに人のあふれるお祭りは近くの神社で催される秋の収穫祭くらいのものだから、たぶん私の記憶もそれなのだろう。
 父に聞いてみたら、眉間に皺を寄せて少しの間考え込んだ後、私が四歳の時のお祭りだろうと教えてくれた。獅子頭を怖がって大泣きした挙句に噛み付かれたものだから、すねて大変だったらしい。そういわれてみれば、たしか獅子舞興行もあったから赤と緑の色彩はその衣装の色に違いない。
 よく覚えているなと父には感心されたけれど、何かもう一つ大きな出来事があった気がして、それが濃い靄がかかったようにどうしても思い出せないでいる。
「そういえばお前、あれはまだ持ってるのか」
 だから、父親が言った言葉の意味がつかめず、私は首を傾げた。
「覚えてないのか、結構薄情な奴だな。ほら、お前が怖くてないてたら男の子が風車をくれただろう。法被を着てたし見かけない顔だったから、獅子舞興行で着てた人の子どもだろうと思うんだが。お前が泣き止んで、宝物にするって嬉しそうにしてたから覚えてるもんだと思ってたがな」
「男の子……?」
 記憶の中の風景の片隅に何かが引っかかるような感じはするが、それは追いかけようとしたとたんに霧の向こうへ隠れるように遠ざかっていってしまう。
「うーん、風車? 覚えてないなあ……。私、本当に貰ったの?」
「宝物箱だったかな、お前がほら、いろいろ仕舞いこんでるガラクタ箱があるだろう。アレに入れてるんじゃないのか。……そういえばあの箱、どこにやったんだ?」
 確かに昔、気に入ったものを何でも入れていた箱があった。けれど、いつからだろうかその箱の蓋を開けなくなって、いつの間にか箱そのものがどこに行ったか分からなくなっていた。
 眉間に皺を寄せて考え込み始めた私を見て、父は呆れたように笑った。
「おいおい、箱も行方不明か。あれだけよくしてもらって忘れちまうなんて、女ってのはこれだからなあ」
 同じ男として切ないねえ、などとこちらを見てニヤリとする父の態度が気に障らないでもなかったが、私は逃げていく風景を追うのに必死で聞こえない振りでやり過ごした。


 
 季節が夏の名残を振り切って秋らしくなった十月の頭、その問題の祭りの日がやってきた。
 私は、記憶をたどるべく久しぶりにそのお祭りに顔を出すことにした。思えば、小学校にあがって少ししてからは両親とではなく友達と連れ立って遊びに行くようになったし、神社までの参道に出る屋台めぐりに精を出すばかりで、肝心の獅子舞などろくに見ていなかった。高校に入ってからは、お祭りは子供が行くものだという妙な見栄をもってしまい、祭囃子そのものに耳をふさいでいた。だから、赤い提灯と白い注連縄飾りが風に揺れる神社の境内に足を踏み入れたのは、初詣を除けば実に十年ぶりのことだった。
 子供たちが列を作るりんご飴の屋台の前を通り過ぎ、アスファルトから砂地にかわった道を右に折れると、赤い鳥居の向こうに少し曲がった石段が目に飛び込んでくる。正月の参拝のように順序良く列を作るのではない、石段一杯に広がりあふれた人ごみに、私は正直面食らった。
 足元をすり抜けるようにして階段を駆け上がっていく子供や、親に抱き上げられた子供が振り回すわた飴に恐怖を覚えた私は、慌てて石段の端に身を寄せた。そうして流れをやり過ごすうちにふと気付いたのは、上から降りてくる子供たちに泣き顔の子が多いことだった。親のほうがそれと対照的に笑っているからだろうか、真っ赤な顔でべそをかく子供がひどく印象に残る。
 人の波が少し途切れた隙間に滑り込んで階段を上がった私は、その先の風景に答えを見つけた。
 拝殿前の境内にあふれる人の群れ。その中を赤と緑のコントラストも鮮やかな獅子頭が三頭、縦横無尽に動き回っている。噛み付かれれば一年無病息災というご利益に預かろうと、親は子供を抱えあげて獅子に差し出す。怖い顔の獅子にガブリとやられた子供はおびえて泣き出してしまうのだ。
 笑い声と悲鳴とが交じり合う人ごみを避けて、私はもう一段高いところにある拝殿に向かう。形ばかりの参拝を済ませて振り向いた私の目に、一組の兄妹の姿が映った。拝殿に上がる階段の隅に腰掛けて俯く少女を、少し年上の男の子が必死に慰めている。獅子が怖くて泣き出してしまったのだろうか。男の子のほうは獅子が見たくてうずうずしているようだが、妹から目を離すわけにもいかなくて困っているらしい。
 妹と人だかりとを交互に見ていた男の子が、ふいに妹の頭を軽くぽんと叩いた。顔を上げた女の子の目の前に、男の子の左手が差し出される。そこには小ぶりのりんご飴が握られていた。驚いた女の子の表情から考えて、お小遣いで買った大事な一本なのだろう。口をへの字に曲げた男の子が、それでも飴を妹に押し付けているのがなんともほほえましい。
 何度か無言の押し問答が繰り返された後、ありがとうと言って飴を受け取った女の子の頬からは、涙の後が嘘のように消えていた。
 仲良く手をつないで人ごみの中にまぎれていった兄妹の姿に、私の記憶の底をくすぐる何かがあったらしい。先日から引っかかり続けていた父の意味深な言葉の謎が、あっさりとほどけていく。
 色も鮮やかな緑色の法被に白いねじり鉢巻を締めた、私より少し年上の男の子。獅子に噛み付かれてビックリして泣いていた私に、少し怒った顔で教えてくれたのだ。
『獅子は風邪をやっつけてくれるイイ奴なんだぞ。よく見てみろよ、カッコイイぞ』
 それから、びっくりした私に屋台でくるくる回っていた綺麗な風車をくれた。
『俺もこれから踊ってくるからな! 泣いてないでちゃんと見とけ!』
 そういって彼は元気欲獅子頭の群れに飛び込んで行った。私は、カラカラと回る風車が嬉しくて、私は泣き止んだのだ。それからは、男の子と一緒に踊る獅子頭を、不思議と怖いとは思わなくなった――。
 ようやく記憶の扉を空けた私は、石段を降りて獅子頭の踊るほうへ近づいていった。
 笑顔の大人と泣き顔の子供に、風邪を追い払う怖い顔の獅子が噛み付いている。少し開けた場所では、あの時と同じような緑の法被にねじり鉢巻を締めた少年が、軽快な祭囃子にあわせて踊っている。
 なぜだか鼻の奥がつんと痛くなって、私は自分が泣きそうになっているのに気付いた。慌てて顔に手をやったところで、獅子頭の一頭がこちらに近づいてくるのが見えた。あ、かまれる、と反射的に首をすくめた直後に、カポンと間抜けな音とともに軽い衝撃が来る。
「お前、まあだ泣いてんのか」
 これで風邪引かないかな、などと暢気に考えていた私の耳に予想だにしなかった声が届いた。
 驚く私の目の前で、獅子頭を脱いだ青年の顔がニヤリと笑った。
 それは、あのときの少年の――。
 あっと声を上げた私の表情に満足したのか、青年の笑みが深くなる。
「相変わらず泣き虫なんだな、後で風車もって来てやるから、ちゃんと泣き止むんだぞ」
 大きな手が伸ばされて、くしゃりと頭をなでていく。私は思わず子供のように頷いていた。
 待ってろよと言い置いて、彼は獅子頭をかぶりなおして再び人ごみの中に飛び込んでいった。
 あちこちで悲鳴と歓声を浴びながら踊る獅子頭を目で追いながら、私はようやくこみ上げてきた笑いに別の涙をこらえる羽目になった。


 この日、私の宝箱にもう一つ、大事な大事な宝物が増えることになった。
 


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