Kiss Me Please

 ギリリ、と弦が鳴る。それは、夢の中でまで響くほどに聞き馴染んだ音だった。
 限界まで引き絞った弓を固定し、遠くに霞む的をみる。深い呼吸を繰り返すうちに、ぼやけていた的がぐんぐん近づいてくるような感覚がわき起こる。それは、本当に極稀にやってくる、神懸かりのような一瞬だ。
 放った矢の軌跡が浮かぶと同時に、ユベールはつがえていた矢を放った。
 ひゅ、と風を切る矢は、幻の軌跡を正確になぞり、的の真ん中に突き刺さった。
 審判が、青の旗を大きく打ち振る。青の矢羽を持つ彼の矢は、赤の矢羽のものよりも、確かに中心にいた。
 一拍おいて、割れんばかりの拍手がわき起こる。ユベールは、後ろを振り向いた。
「どうだ、カーラ!」
「お見事です、殿下」
 左手に弓を携え、そして赤い矢羽ついた矢を納めた矢筒を足下においた女性が、笑顔で答えた。華やかなドレスなどではなく、軌道力重視の黒い男物の騎士装束をまとっていても、その笑顔は飛びきりだった。
「巧くなっただろう?」
 誉められたユベールは嬉しさを隠そうともせず声を大きくした。
「ええ、本当に。見違えるようです。たった数ヶ月でこれほど上達なさるとは」
 カーラと呼ばれた近衛騎士の声には、隠しようもなく驚きが混じっている。
 それはそうだろう。ユベールはかつてこの方、弓矢を含めた武術の類をまともにこなせたことはなかったし、もちろん上達のために時間を咲くこともしなかった人間だ。
 それが、本腰を入れてたった数ヶ月で、まぐれあたりに近いものの、騎士たるカーラよりも的の中心を射抜くまでに腕を上げたのだ。カーラだけでなく、この勝負を見物しに来ていた誰もが、同じように驚いている。
「当たり前だろ。だって死ぬほど練習したんだぞ。まあーー動かない的限定だけどな」
 そう言って、ユベールは胸を張った。両手の血豆が疼くのも気にならない位に喜びが先立っている。
 そんな主に向かって、カーラは真面目な声で宣言した。
「いえ、殿下。どうあれ結果ははっきりしています。コノ勝負、私の負けですよ」
 ユベールの顔がさらに笑み崩れる。彼がこの勝負に本気を出して取り組んだのは、カーラからその言葉を聞きたかったからだ。そして、ユベールが勝った時の褒美を、望んでいるからだ。
「お約束の件、今果たさせていただいてもよろしいですか?」
「え、ええ、今?」
 ユベールの声が上擦った。
「こ、ここでか!?」
「はい。せっかく皆様もおいでのことですし」
 言うなり、カーラはその場に片膝をついた。そして、武芸に秀でたものが持つ美しい指先で、ユベールの右手を恭しく持ち上げる。
 ユベールの右手から、厚い革の手袋が取り去られた。
「本当に、ちゃんと練習なさったのですね」
 何度も切れたのだろう皮膚の薄い親指の付け根が、そっと撫でられた。
 ユベールが、その刺激に体を震わせる。
 そして、カーラの少し冷たい唇が、手の甲に恭しく落とされた。それは、この上もなく柔らかな感触だった。
「ご満足いただけましたか?」
 臣下の口づけを終えたカーラは、膝をつき、右手をとった姿勢のまま言葉を続けた。
「ユベール様、私からもお願いがございます。動かぬ的とはいえ、あなたをお護りする務めの私が、殿下ご自身より武術において劣る、というのは、役目柄ふさわしくないと考えます。殿下をお護りできる自信がつくまで、私に再訓練の時間をいただきたいのです」
「えーーあ?」
 いまだに手の甲の感触に酔いしれているユベールの耳に、その言葉は半分以上届いていない。けれで、ユベールの漏らした間抜けな声を肯定と受け止め、近衛騎士は言葉を継ぐ。
「ありがとうございます。できれば半年、いえ一年ほどは訓練に励みたいと思います。その間は、私が適任と思うものを推挙させていただきます。勝手を申し上げることをお許しください。では、失礼します」
 彼女は立ち上がると、見事な身のこなしで敬礼した。
 ユベールは、歩み去るカーラをぽかんと見つめている。まだ、状況は飲み込めていない。
 その間にも、取り巻いていた見物客が一人二人と辞去していった。
 彼が我に返ったときにはもう、射的場はほぼ無人になっていた。そして、ようやくカーラの言葉を理解する。
「ーーって、え、ちょ、ちょっと待って」
 待て、と呼び止めたい相手は、もちろんもういない。ユベールは、その場に崩れるように座りこんだ。
「待ってくれよ。これじゃあ、全然違うじゃないか……」
 彼が、彼女に勝負を挑んだのは、ただ単に、彼女の口づけが欲しかったからだ。手の甲になどではなく、頬に。いや、親愛以上の情を込めて、唇に。
「バカねユベール。あなたほんとにバカだわ」
 切って落とすような声が響いた。妹だった。
「なんだよ、ユージィ」
「何って、バカだからバカって指摘してあげてるのよ。だいたい、やり方が最悪。ていうか的外れ。それもわからないなんて、ほんとにバカ」
 元々、彼女はそこらの政治家よりも口がたつ。その上、政略のために隣国の国王に嫁ぐことが決まってからの数ヶ月、その口振りは苛烈さを増している。その妹に畳みかけられて、ユベールは思わず口ごもった。
 少女は、座っていた塀の上から、すとん、と飛び降りた。柔らかなスカートが、ふわりと舞う。
「何が欲しいか相手に悟ってもらおうだなんて、甘え以外の何ものでもないでしょう。欲しいなら、自分で奪いにいきなさい。できないなら最初から欲しがるんじゃないわ」
「そんなこと言ったって……」
 ユベールの言い訳を、少女は許さない。
「ユベール、あなたが欲しいものは何? あなたは、それを穫りにいけないくらい腰抜けなの?」
 ユベールは、瞬きを繰り返して妹の言葉を反芻する。
 そして、唇をかみしめて駆けだした。
 ユージィは、そんな兄をため息混じりに見送った。

 王位継承を約束された皇太子が一介の近衛騎士に求婚するという前代未聞の事件が起こるのは、それからすぐのこと。それが巻き起こした数々の騒動は、また別の物語だ。

 
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