ガラン、と来客を告げる重いベルが鳴る。
頭上から降ってきた大きな音に、マリイはびくっと首をすくめた。真鍮製の大きなドアベルは、雷のような音を立てるのだ。
一瞬立ちすくんだマリイは、扉に押し戻されそうになって慌てて両腕に力を込めた。重いドアベルをつけた扉は分厚い木材でできていて、小さなマリイの体など簡単にはじき飛ばせる程なのだ。
マリイは全身の体重を乗せて作った扉の隙間から、一息に向こう側へ滑り込んだ。
背中でどん、と扉が閉まる。ベルがガランガランと音を立て、部屋の中に並んでいる戸棚のガラスや、その中にある小瓶までもがガタガタビリビリと揺れた。
調度品だけではない。重い扉が閉まると、まるで本物の雷が落ちたかのように、家全体が震えるのだ。
マリイは、両目をきゅっと瞑って、いろいろなガタガタが鳴りやむのを待った。
ビリビリ震えていたガラスたちが静かになると、部屋の中はひどく静かになる。そっと目を開けると、薄暗い部屋の中にはマリイ一人きりだということがわかった。
マリイから見れば壁のように高いカウンターの向こうに、見慣れた人影はない。
薄暗い部屋の中で、マリイは体をすくませる。つん、と鼻をつく乾いた草のにおいはいつもどおりだけれど、誰もいない店の中はひどく不気味に感じられた。
マリイがこの薬店に一人でくるのは、今日が初めてだった。いつもはお母さんと一緒に、ほかの買い物ついでに寄る。
お母さんがいればちっとも怖くないガラス棚も、一人で見上げているとなぜだか知らないもののように思えてくる。濁ったガラス瓶の中で、何か悪いモノが動き出しそうなのだ。
マリイは、両手でぎゅっとスカートを握りしめた。
お母さんなら、平気な顔でこんにちは、と声をかける。そうしたら、カウンターは無人でもちゃんと返事が返ってくる。
けれど、マリイはこんにちはの声が出せなかった。大きな声を出すのが恥ずかしい訳ではないのに、声が出てこない。
マリイはますます強くスカートを握りしめた。お母さんにお使いを頼まれたときは大丈夫だと思ったのに、いざ一人で薄暗い店の中にいると、足がすくんでしまった。
お店が閉まっていたと嘘をついてこのまま帰ってしまおうか――そう思ったとき、ドアベルがガランと音を立てた。
「おばあちゃん!」
飛び上がって振り返ったマリイが見たのは、重い扉を押しあけた老婆の姿だった。
ふっくらした体を枯れ草色のショールに包んだ老婆は、皺の奥の双眸をせわしなく瞬かせてからマリイを見下ろした。
「おや、いらっしゃい。悪かったね、待っててくれたの?」
「うん、お母さんがね、いつものお薬をもらってきてって!」
マリイは息せききって用件を告げた。ちょっぴり怖かったのと驚いたのとでこぼれそうになった涙をごまかすためだ。
「はいはい。いつものお薬ね。ちょっと待っててね」
老婆はひょこひょこと歩いてカウンターを回り、戸棚の前に立った。大きなガラス瓶をよっこらしょ、と抱え下ろす。
その中に入っている黄土色の粉が咳止めに効く薬だと、マリイは知っている。マリイのおじいちゃんは、この店の咳止めが一番効くのだといって、ほかのお医者様の薬は絶対に飲もうとしないのだ。
マリイはカウンター越しに老婆が右に左に歩くのを見ていた。粉を丁寧に計り、一回分ごと小さな袋に詰めているのだ。
十日分、三十袋ができあがるまで、マリイはぐるりと店の中を見て回る。高い薬は全部戸棚の奥だけれど、窓のそばに並べられた小瓶には、鮮やかな色砂がきれいに詰められている。
マリイはいつもそれを眺めたいと思っていたのだけれど、お母さんは壊すといけないからといってなかなかそばへ行かせてはくれなかったのだ。
「マリイちゃん、お待ちどうさま」
赤色、青色、緑色、と砂の色を眺めているうち、おじいちゃんの薬は準備できたらしい。
「はい、いつものね」
手招いた老婆が、薬の入ったかごを渡してくれた。
「ありがと!」
それを抱くように受け取ったマリイは、笑顔で老婆をみあげた。それから、きょろきょろと視線をさまよわせ、小さな声で老婆を呼ぶ。
「ねえ、おばあちゃん」
「なにかしら?」
内緒話のように、老婆は顔を近づけてくれた。その耳に、ずっと聞きたかったことをささやいてみる。
「あのね、おばあちゃんてーーまほうつかいなの?」
老婆の両目がまん丸になった。
「まあ、どうしてそう思うの?」
「だって、みんなそう言ってるよ! すごいお薬がいっぱいあるし、それにーー」
マリイは、小さな指で棚の上を指した。棚の上にちょこんと乗せられた小さなランタンの中で、ちらちらと燃える紫色の炎。いつ見ても同じように燃えている炎にはきっと魔法がかかっているのだと、子供たちはみんなそう噂市あっているのだ。
それをマリイは、どうしても確かめてみたかった。
「あれは、魔法のランタンでしょう?」
けれど、マリイの期待に反して、老婆ははっきりとかぶりを振った。
「残念だけどね、おばあちゃんは魔法使いじゃあないよ」
「違うの?」
「そう。だってこのお薬もあのランタンも、おばあちゃんが作ったものじゃないからね」
「そっかあ」
マリイはがっくりと肩を落としかけ、ふと気づいた。
「じゃあ、お薬とランタンと作った人がまほうつかい?」
「さあ、どうだろうね?」
今度は、老婆は首を振らなかった。笑顔のまま、少し困ったように首を傾げている。
「あんなにすごいお薬を作れる人は、まほうつかいだよね?」
「どうだろうねえ」
確証が欲しくてもう一度尋ねても、老婆の答えは曖昧だった。秘密にされているのだと、マリイは唇を尖らせる。
その頭に、老婆がふわりと手を置いた。
「さあ、もう帰ろうね。お母さんもおじいちゃんも薬をまってるよ」
頭を撫でて、扉を指す。促されたマリイは、戸口まで素直に駆けていった。そこで振り返って、最後にもう一度。
「ねえ、わたし、その人に会ってみたい!」
「どうだろうねえ?」
けれど、やっぱり答えは変わらない。
唇を尖らせてうつむいたマリイは、ふっと顔をあげた。
「うん、わかった」
そうだ、まほうつかいはそう簡単に人の前には出てこないのだ。だから、おばあちゃんも答えられないのだ。だって、その方がずっとずっとまほうつかいらしいもの。
「じゃあね、おばあちゃん! まほうつかいさんにもよろしくね!」
一人結論を出したマリイは、そういって元気に扉の向こうに飛び出していった。
その後ろ姿を、老婆は笑みを浮かべて見送った。