最愛の

「あなた、早くしないと遅れますよ。約束の時間」
「分かってる、もう少し待て」
 扉の外からかけられた声に、私は渋面を作った。妻に支度を急かされるなど、ほとんど初めてのことだ。いつもは化粧だなんだという妻相手に、私が急かす立場なのに。
 そう思いながら結んだネクタイは、斜めに歪んだ。この前までは、ほかのことに気をとられたとしても完璧な形に結べていたのに。
「あ、な、た!」
 妻が催促している。扉を叩かれるなど、子供の頃以来だ。
「時間!」
 うるさい、分かっている。
 壁の時計は、確かにギリギリの時間を示している。
 今度こそ、ネクタイは満足の行く形に結べた。
 上着を羽織って引き戸を開けると、身支度を整えた妻が待っていた。
「まあ……」
 妻は、呆れたように目を見張った。
「わざわざ着替えたんですか?」
「変か?」
 40年近く勤め上げた会社を退職してから、確かにスーツの類には縁がなかった。ネクタイを締めるのも久しぶりだった。
 悩みに悩んで選んだ少しくだけた明るい色のジャケットは、妻の目に似合わないと映ったのだろうか。
「変ではないですけど、わざわざジャケットになんか着なくても」
 けれど、妻の着眼点はそちらではなかったらしい。出かけるとなると服選びに時間をかけすぎる彼女に言われたくはない。
「あの子は、あなたがお洒落したところで気にもしませんよ」
 耳にいたい言葉を、意図的に聞き流す。親御さんにはご挨拶しないといけないのだから、礼儀だ礼儀。
「行くぞ。時間に遅れる」
「少し遅れるかもしれないと、ご連絡しておきましたよ。急いで危ないのは良くないわ」
 妻の機転はもっともだが、気はせいて仕方ない。
 玄関先まで行ってから妻を振り返り、その姿に私はようやく違和感を覚えた。
「お前、荷物はそれだけか?」
 妻が手に持っているのは、小さな鞄一つきり。
「それだけって、何を持っていくっていうの。必要なものは、あちらで教えてもらってから揃えるって決めたでしょう」
 いつもはあれやこれやと要らない荷物を増やしたがる妻の声が、呆れている。
 私は聞こえない振りをして玄関をでた。

 車を運転している間中、落ち着いてと妻に声をかけられた。
 けれど、ようやく彼女が私の娘になるのだ。気がせかないほうがおかしい。
 急ぎに急いだ車は、待ち合わせ時間ギリギリに目的地へと滑り込んだ。
 駐車は妻に押し付けて、私は急いだ。
 古い日本家屋そのままの、広い前庭をもつ畑の中の一軒家。
 くたびれたジーンズに、長袖のTシャツ。少し茶色の髪を後ろで束ねた若い女性が私を出迎えてくれる。いまどきの、というには慎ましやかないでたちだ。
「すみません、遅くなりまして」
「お待ちしてましたよ、お父さん」
 そいういって女性はにこやかに笑う。
 女性の腕の中に、私が会いたくて仕方のなかったあの子がいた。 
 そっと地面に下ろしてもらった彼女は、短い足で不器用に歩き、私の前に立った。
 しゃがんで視線をあわせた私に向かって、彼女は精一杯の歓迎を示し、首をかしげてキャンとないた。



「それにしても信じられねえ」
「母さん、父さんとられちゃったね」
「いいのよ、静かになって。お父さんの相手は疲れるもの」
「お前たちうるさいぞ、貴子が起きる!」
 父親の一喝に、妻と息子たちは顔を見合わせ、たまりかねたように噴出した。
「うわー、別人じゃん、父さん。俺、兄貴に子供が出来たら覚悟しようとは思ってたけどさあ」
「生憎予定もまだだが……うん。先にコレで耐性つけられたと考えるべきかもなあ」
「兄さん、女の子だったら連れてくるかどうか考えたほうがいいよ、真剣に」
 一向に静かにしない息子たちに背を向け、満夫は心配げな視線を膝元に落とした。
茶色の子犬が一匹、彼の胡坐の間でぐっすりと眠っている。
 顔は仰向け体は横向き、という何ともアクロバットな姿勢は何度直しても元に戻ってしまう。
 少し開いた口元が笑みのようで、それがまた何とも愛らしい。
 知らない家に連れてこられた子犬は、あどけなさの中にも不安を隠せなかったらしい。どこに行くにも何をするにも、満夫の様子を伺い、彼が見ていることを確認して安心して行動に移すのだ。
 遊びつかれて寝付いてしまうまで、彼の手の届く範囲内から出ようとしなかったのだから、愛着が湧かないはずもなかった。
「アレだけ反対してたのはだれだっけな。家の中に何があっても入れないって気巻いてたよなー」
 真ん中の息子が、揶揄するように呟いているが、知ったことではない。このあどけない寝顔を見て、冬の寒空に放り出せる人間が居るわけない。と、満夫は口に出さずに反論する。
「父さんが動物飼うって自体が信じられないよ」
「そうだよね、どれだけ頼んでも許してくれなかったのにさ」
 長男の言には、末っ子も同意した。が、いくらせがまれても首を縦に振らなかったのは、過去の話であって今ではない。
「仕方ないじゃない、お父さんの初恋なんだから」
「初恋ー!」
 妻が容赦なく断言し、似合いもしない言葉に子供三人が目をむく。
 子犬が来るからと久しぶりに実家に戻った彼らにとって、見たことのない父親の姿は、それだけ驚きの対象だった。
「初恋よ、初恋。それも一目惚れ」
 恋に落ちた瞬間を目撃している妻の言葉は、満夫自身も否定できない。
 三十数年の結婚生活の根幹は、とたずねられれば、見合い結婚で築いた家庭だ。可もなく不可もなく、とは行かなかったがおおむね順調な家庭生活ではあっただろう。
 けれど、誰かに対し、何かに対して、何を振り捨ててでもと思い立つような感覚をもったことは、一度もなかったはずだ。
 そのことを、人生の半分以上を寄り添ってきた妻は、よく分かっている。
「もう、堕ちた、ってこのことね」
 妻にせがまれて、かつての上司の知り合いをと紹介された以上は断れるはずもなく、しぶしぶついていった子犬の生家で、小さな茶色い塊にまさしく恋に落ちたのだ。 
 それ以来引き取りの日まで、一日たりとも忘れ去ることが出来なかった存在。
 これを恋と呼ばずしてなんといおうか。
「相思相愛だし、いいんじゃないの。お父さんの子守してくれる子ができて、お母さんは満足よ」
 末の息子が独り暮らしで大学生活を始め、三人の子供が手を離れて寂しいからと最初に犬を飼いたいと言い出した妻は、そういって笑う。
「というよりね、こんなお父さん見るの初めてだから、おかしくておかしくて」
 暇をつぶせる存在があれば、細部にはこだわらないということらしい。
「寝る」
 いい加減にからかいの対象なることに気恥ずかしさと気まずさを覚えた満夫は、妻の言葉をさえぎって立ち上がった。
 腕の中には、眠った子犬が収まっている。 
「わー、逃げた」
 背中で笑い声がはじけたのを聞き流して、満夫は宣言どおり自室に消えた。
 子犬の寝床も満夫の部屋に作られてはいるが、使われることはないと妻も子も確信していた。

 その後、予想以上の甘ったれ末娘に成長した子犬と、それを愛して止まない満夫との蜜月に、残りの家族全員が辟易したことは想像に難くない。


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