鬼ごっこ

「にいちゃーん!」
 子供の声に驚いて、山鳩が藪から飛び立った。
 バサバサガサガサと騒々しい音がひとしきり響く。ギャッギャと鳴く鳥の声が随分遠ざかってから、松の根元の茂みが小さく揺れた。
 五歳程の男の子が一人、半分べそをかきながら顔を覗かせる。泥に汚れた両頬には涙の跡がくっきりとつき、継ぎはぎだらけで丈のあわない着物には模様のように枯葉がついている。
「にいちゃーん! おセイちゃーん!」
 恐る恐る出していた声は、すぐに涙混じりの絶叫に変わった。けれど呼び声に応えは返らない。それどころか、幼子が精一杯に張り上げた声は、木々のざわめきに押され木霊にすらならなかった。
 高く高く枝を伸ばす木々が空を遮り、森の中は薄暗い。人の手が入らぬまま斜面を覆った下草は、子供の背丈など軽く飲み込んでしまうほどだ。
 村の里山から続く深山に、子供が立ち入ることは許されていない。それは、五歳になったばかりの嘉助も十分に弁えていることだった。
 そもそも、何も好き好んで大人にきつく禁じられている山に入ったのではなかった。五つ年の離れた兄を追いかけているうちに、迷い込んでしまったのだ。
 畑仕事の手伝いに飽きた兄は、村の子供たちと鬼ごっこを始めた。里山は子供たちの遊び場だ。
 嘉助もその仲間に加わりたかったのだが、兄は足の遅い弟の面倒を見るのを嫌がった。着いてくるなの一言だけを残して、いつもの友人たちと走っていってしまう。
 いつも置いてけぼりにされる嘉助は、今日こそはと兄の背中を追った。いつもなら諦めて母の元へ帰る場所まできても、ただ前に向かって走った。
 遠くに見え隠れする誰かの着物の色を追い続けていたつもりが、見たこともない藪の中で道を見失ってしまったのだ。
 嘉助は慌ててきた道を引き返した。けれど、たかだか五歳の子供が、大人ですらめったに立ち入らない山道を見つけ出せるはずもなかった。
 何度も土手を滑り落ちて、着物も手足も傷だらけの泥だらけになっている。それでも帰り道は見つからなかった。
 兄を追いかけたのは昼餉を済ませてすぐのことだったのに、陽はそろそろ傾き始めている。だんだんと翳っていく森の様子に、彼の不安は募るばかりだ。
「にいちゃーん!」
 返らぬ応えを求めながらあふれる涙を拭ったとたん、嘉助の視界がぐらりと揺れた。
 踏みしめていたはずの下草の向こうには、あるはずの大地が存在しなかった。
 あ、と思ったときにはもう遅い。身体は見る間に滑り落ちていく。
 嘉助は、かだ身体を丸め、歯を食いしばって衝撃に耐えた。小枝だろうか、硬いものが頬といわず腕といわず乱打していく。耳元を、風の唸るような音が通り過ぎていく。
 あまりの恐怖に、痛みはすべて終わったあとに襲ってきた。
 どうやら、かなりの高さのがけの上から滑り落ちたらしい。
 着物は泥にまみれ、左の袖は大きく破れてしまっていた。顔も手足もじんじんと痛む。すりむいた両膝からは、赤い血がにじみ始めている。
 嘉助は、仰のいて大声に泣いた。
 痛いだとか怖いだとか、いろいろな感情が一気に襲い掛かってきて、どうしようもなくわめき散らした。
 どれだけ泣いただろう。
 我に返った嘉助を包むのは、夜の訪れを告げる肌寒い風だった。
 誰にも見つけてもらえない。
 その絶望は、五歳の子供にも理解できた。
 頭上を、真っ黒い鳥が連れ立って飛んでいく。濁った鳴き声までが不気味に恐ろしく、もうかすれてしまった悲鳴を上げた。
「ね、なんでそんなところにいるの? 楽しい?」
 場違いな声が落ちてきた時悲鳴にならなかったのは、ただ息を吐ききっていたからにすぎない。
「かくれんぼ?」
 驚きすぎて固まった少年に、赤い振袖をまとった少女が重ねて問う。
 嘉助は目を見開き、座り込んだまま後ずさりした。
「あなたは鬼さん?」
「――ちがう」
「ちがうの? なあんだ、残念。じゃああたしと遊んでよ」
「だめだよ、もう、うちへ帰らなきゃ」
 嘉助は半ばぼんやりと言葉を返した。山奥には到底似つかわしくない艶やかな着物姿の少女は、気にした風もなく唇を尖らせる。
「つまんないの。ね。下の村の子でしょ? 途中までついていっていい?」
 村の子供たちとはまったく違う言葉遣いで、少女は問いかける。
「お前」
 嘉助はようやくその違和感に気づいた。
「お前、どこの子だ?」
「あたし? あたしはこの山の奥に住んでるの。じいちゃんと一緒に住んでるの。あんまり下まで降りちゃ駄目だって言われてるんだ。でも、内緒にしてくれるでしょ?」
 ならばこの少女は山人の娘なのだろうか。
 山には山人と呼ばれる人たちが住んでいると、大人に聞かされたことがった。どんな山でも自由に行き来できる人たちだ。
「ね、名前は?」
「か、すけ」
「かすけ? ふーん。あたしは、如月」
「きさらぎ?」
「そ、如月」
 名乗った少女は、いきなり踵を返して姿を消した。嘉助は慌てて藪の中から這い出す。
 半ば倒れかかった大木の向こう側に、ひらりと翻る袖先が見えた。
 ぐるりと追いかけた先で、少女は一抱えもある丸い何かを持っていた。
 二度か三度小さな手に撫でられたそれは、重さを失ったかのようにふわりと浮きあがる。
「かすけの案内、かすけの案内。里の家まで!」
 不思議な節回しで歌い上げると同時に、浮きあがったものがぼんやりと光り始めた。
「そ、それ、何?」
「鬼灯」
 答えに、嘉助は目を見張る。
 今は鬼灯の季節ではない。そもそも、一抱えもある光る鬼灯など聞いたことがない。
「明かり、必要でしょ? もう暗いから」
 けれど少女は当たり前だといわんばかりの口調で答えた。そして、提灯のようになった鬼灯を掲げ、先に立って歩き始めた。
「ま、待ってよ!」
 嘉助は慌てて橙色の光を追った。
 すっかり陽の落ちた森の中を、赤い着物がひらひらと蝶のように舞う。それを、嘉助は時折躓きながら必死に追った。
 足元もおぼつかないような暗がりであるはずなのに、少女の歩みは乱れることがない。
「待ってよ!」 
 少女の姿が木々の合間に消えるたび、嘉助は悲鳴のように声を上げた。
「だって遅いんだもん」
 その度呆れたように肩をすくめた如月は、それでも嘉助が追いつくまで待っていてくれた。
 右に左に木立を避けながら、獣道のような小路を下る。
 息を切らして赤い着物を追う嘉助は、やがてあっと声をあげた。
「村だ!」
 気づけば、森を抜けていた。眼下に見慣れた村が見えた。
「良かったね」
 白い息を吐く嘉助とは対照的に、わずかも乱れない息で如月が笑った。
「あの、さ、ありがと」
 村までつれてきてくれたのだとようやく気づいて、嘉助は礼を口にする。
「いいの。ちょっと楽しかったから。じゃあね」
 笑って手を振る少女に手を振り返してから、嘉助は里に続く坂道を駆け下りる。
 途中振り向いた時、森の端に少女の姿はもう見えなかった。 



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