雪狼

 ガラガラと揺れていた馬車の振動が重いものに変わった。荷台で膝を抱えていたラアダは顔をあげ、身をのりだした。
 舗装もされていない岩だらけの道は相変わらずだが、その上を白いものが覆っている。
「雪……!」
 声に、はしゃいだ響きが混じった。
 御者台に座っていた男たちが少女を振り返る。
「おい、おとなしく座っていろ!」
 荷台の端をつかんで膝立ちになっていたラアダはびくりと肩を竦めて腰をおろした。それでも視線は降り積もった雪に向けられたままだった。
 荷馬車は街道をそれて山道にはいった。車体の揺れが今までにも増して激しくなる。
 冷たいものが頬に触れて、ラアダは顔を上げた。木々の間からちらちらと白いものが舞い落ちてくる。それはすぐに吹雪になった。
「おい、降りろ」
 馬車が乱暴に止まる。山道は急激に細くなり、荷馬車ではそれ以上進めないのだ。
 御者台から降りた男たちは厚い外套を纏い、襟巻きに顎を埋めている。けれど荷台に立ち上がったラアダには上着すらない。生成りの生地の服から白く色を失った手足がむき出しになっている。足下すら、大きさの合わないぼろぼろの靴を履いているだけだ。
 白い息を吐きながら寒さに震えるラアダは、それでも文句ひとつ言わずに荷台から降りた。
「さっさと来い」
 少女の様子を一顧だにすることなく、男が手を伸ばした。細い腕を捕まれ力任せに引きずる。一瞬つんのめったラアダは、それでも抵抗も見せず歩きだした。
 雪空が、だんだんと藍色を濃くしていく。日暮れに追われるように、男たちが足を早めた。大人の足についていくのが精一杯の少女は、時折悲鳴を飲み込みながらも懸命に後を追った。
 やがて小道は、そびえる岩山にぶつかった。岩肌は切り立った崖になっていて、上を見上げても先が見えないほどに高い。
 男たちはその岩壁に沿うように道を逸れた。吹き溜まりになった雪の小山を越えた先に、小さな洞穴が口を開けている。
「入れ」
 どんと背中を突き飛ばされ、ラアダは洞穴に倒れ込む。入り口は小さいが、そこはある程度の広さを持っているようだ。雪の届かない苔むした地面はふわりと柔らかい。
 続いて入ってきた男に追い立てられるように、ラアダは穴の最奥まで進む。張り出した岩が、ちょうど寝台のようになっている。
 ラアダをそこに追い上げた男が、懐をまさぐって荒縄を取り出した。無造作に小さな足をつかみ、足首に縄を巻き付ける。ぐっと締められた結び目は、子供の手ではほどけそうもない。
 男は、縄のもう一方の端を細く突き出した岩に結びつけた。縄に繋がれたラアダが岩棚から降りることもできないほどの短さだ。
「いいか、逃げるよ」
 そこまでしておいて尚、男は脅すように言葉を吐く。
 そして、素直に頷いてみせたラアダに何故か怯えたような視線を向けてから踵を返した。
 逃げるように、男たちの足音が遠ざかっていく。文字通り置き去りにされたと分かっているのに、少女は泣き顔一つ浮かべない。ただ物珍しそうに洞穴を見回して、苔の床に腰を下ろした。
 彼女は人買いに売られた子供だった。
 貧しい家にはまだ幼い兄弟も多く、その日の食べ物にすら事欠くありさまだった。まだ働きに出られるほどの年齢ではないラアダにも、そんな事情は肌で感じられた。
 どうしても金が必要になった時に手放せるものは、子供しかいない。働きに出ている兄たちよりも、まだ母親にべったりの弟妹たちよりも、自分がそれに適していることを、彼女は誰よりも理解していた。
 だから、人買いに連れられて家を出る時にも、不思議と悲しいとは思わなかった。むしろ手に入った幾ばくかの金で家族が飢えなくてすむことが嬉しかった。
 けれど、まだ女の兆しも見えてはいない少女を買い取ってくれるところはなかった。娼館には売られないだろうという両親の微かな希望は、逆に少女の買い手を狭めることにしかならないのだ。
 小さな身体では客などとれない。それどころか、どこかの屋敷で下働きとして使うにさえ、彼女は幼かった。
 なかなか買い手がつかないことに苛立っていた人買いから彼女を引き取ったのが、こんな山奥に一人置き去りにしたあの男たちだった。
 人買いが機嫌を悪くするほどの安価でラアダを買い叩いた男たちは、彼女を荷馬車の荷台に追い上げたあと一言告げた。お前は生贄になるのだと。
 男たちは、この山の近くにある村の住人だという。この山には、雪を司る不思議な狼が棲んでいるというのだ。
 小さな川しか水源のない村にとって、冬に積もる雪は必要な存在だ。春先の畑を潤してくれる水は、冬の間に不利積もった雪によってもたらされる。けれど同時に、雪に埋もれた畑からは食べ物が得られない。
 彼らにとって雪とは、命を左右する存在なのだ。
 いつもより早く初雪を迎える年は、雪狼が腹を空かせていると言い伝えられているのだという。そういう年に限って雪解けも遅く、積もる雪は人の背丈を軽く越える。そうなってしまえば、山から薪を取ることすらままならなくなる。村は飢えと寒さに怯えながら冬を越さなければならないのだ。
 それを免れるために必要なのが、生贄だった。柔らかな血肉をもつ子供を差し出すことで雪狼の飢えを満たし、春の早い雪解けを願う。それは、長年言い伝えられてきた慣習だった。
 けれど、望んで我が子を差し出す親はいない。
 かわいい子供と村人の命を天秤にかけた結果導き出された結論が、縁のない子供を買ってくるということだったらしい。
 目ぼしい子供を探し町に出た男たちの目に留まったのが、つまりラアダだった。たたき売りのような値段しかつけられていなかった彼女は、貧しい村人たちにとって最適だったのだろう。
 馬車の荷台で揺られながらそう教えられたラアダは、不思議と怖いとは思わなかった。
 空腹の辛さも、暖を取れない夜の切なさも、彼女は身を持って知っている。もともと、お腹が減ったと泣く弟妹たちが可哀想だと望んで売られてきた身だ。その自分が、大勢の村人を助けられるのかもしれないと思えば、いっそ嬉しいほどだ。
 それに、彼女は雪を降らせるという狼に逢ってみたかった。毛並みはやはり、雪のように白いのだろうか。
 ラアダは、待ちわびるように洞穴の入り口に視線を向けた。
 床を覆う苔は淡く光を放っていて、洞穴全体が仄明るい。冷たい風も奥までは吹き込んでこないらしく、寒さもあまり感じない。
 お腹が空いてるのなら早く来ればいいのに、と、どこか他人事のように考えながら、ラアダは雪狼の訪れを待っていた。


 足下を冷たい風が吹き抜けて、ラアダは眠気を纏った視線をあげた。手足はとっくにかじかんで、震えることすらやめてしまっている。
 あげた視線の先で、洞穴の入り口が白くかすんで見えた。吹雪が強さを増したのだろうか、洞穴の中にも容赦なく冷気が忍び込んできている。
 けれど、顔を上げたラアダは、すぐに白い息を喜びに弾ませた。
 入り口に漂っていた冷気が渦を巻き、すぐに一つの影を形作った。
 雪にそのまま命を与えたかのように真白い毛並みの狼が、僅かに首を下げてこちらを見つめている。その身体は、洞穴の入り口をふさぐほどに大きい。
 まさに雪狼というなにふさわしい狼は、ゆっくりと洞穴の奥に侵入してくる。
 ラアダは恐れる風も見せず、狼を迎えるように身体を起こす。その顔には紛れもない喜色が浮かんでいた。
 雪狼の纏う空気は、周囲を凍りつかせんばかりに冷たい。一歩進むごとに気温が下がり、吐く息は白く凍える。震えながらも、ラアダは頬を上気させた。
 なんて綺麗な毛並みなのだろう。薄暗い洞穴のなかで、星の光を浴びたかのようにキラキラと輝いている。周囲を凍りつかせるほどの冷気を放つ毛並みは、やはり冷たいのだろうか。
 青白く輝く体躯に魅入られたように、ラアダはうっとりと双眸を細める。
 逃げるそぶりも見せない少女に、狼が近づいていく。
 手を伸ばせばその毛並みにふれることができる距離まで近づいてきたとき、ラアダは地鳴りのような音を聞いた。 ぐるぐるという低い音は、狼の唸り声だった。
 少女を警戒してのことなどではなく、空腹なのだとすぐに分かった。
 それまでの動きが嘘のように、狼が荒々しく地を蹴った。前足の一振りで簡単に倒されたラアダは、仰のいて狼を間近に見つめた。
 氷を思わせる蒼い双眸が、見下ろしてくる。それは、飢えのためにか僅かに曇っているようだ。
 ラアダは、にこりと笑みを浮かべた。
「いいよ」
 笑みを浮かべたまま、柔らかい声で誘う。その声に、やはり恐怖の色は混じらない。
 空腹は、つらい。それを彼女はよく知っている。
 そして、この狼もやはり空腹が辛いのだ。だからこそ、麓の村人たちが困るほどに吹雪を起こすに違いない。
 その辛さが少しでも癒せるならいいと、ラアダはそう思う。それに、こんな綺麗な存在に食べられたなら、やせっぽちな身体も綺麗な毛並みの一房くらいにはなれるだろう。
「いいよ、ぜんぶ、食べていいよ。私小さいから、足りなかったらごめんね」
 声に誘われるように、狼は少女の首筋に鼻先を埋めた。 ラアダは両手を広げ、顎を迎える。鋭い牙が柔らかな皮膚に食い込む瞬間まで、浮かんだ笑みが強ばることはなかった。



 ぬるま湯のような暖かさに包まれていることに気づいて、ラアダはゆっくりと目を開けた。視界の中、ぼやけるほどに近い場所で、真白い毛が揺れている。
 穏やかな呼吸につれて上下する暖かな身体み頬を寄せてみると、揺りかごの中にでもいるようだ。
 もこもことした毛並みが思いの外柔らかいことが嬉しくて、ラアダは擦り寄せた頬を緩めた。鼻先を埋めたら、日向の匂いがする。
 ふと、ラアダは動きをとめた。
 確か自分は雪狼の餌として食べられたのではなかったか。こんな風に柔らかな毛並みに包まれてぬくぬくとしていていい状況ではなかったはずだ。
『何だ、起きたのか』
 浮かぶ疑問に動きを止める少女に、低い声が呼びかけた。
 耳を打つのではなく直接頭の中に響く声に、ラアダは恐る恐る顔を上げ視線をさまよわせる。
 すぐに、蒼い双眸にぶつかった。
 それは、彼女の記憶にあるものとは似つかないほど深い落ち着きを湛えていた。飢えも焦りも、もうそこにはない。大きな身体はゆったりと地面に横たわり、柔らかなな腹にラアダを抱え込んでいる。
 それを惚けたように見上げていた少女の表情が、にわかに曇った。きれいな緑色をした瞳に、ぶわりと水の膜が張る。
「ごめんなさい」
 何事かと頭をもたげた狼の前で、少女は泣き顔を伏せた。
「ごめんなさい。私、美味しくなかったんでしょ?」
 あれだけ飢えを表していた狼が一口かじっただけでやめてしまったのは、きっとそういうことなのだ。ラアダはぎゅっと唇を噛んだ。
『いいや』
 頭の中に、少し低い声が響く。え、と顔を上げたラアダの頬を伝う涙を、狼の舌が器用に舐め取っていく。
『充分、旨かった。だから泣くな』
 目尻を舐めた狼が、そっと鼻先を頬に押しつけてくる。
「でも、だって……」
 宥めるような声が狼のものだということよりも、その内容に戸惑う。あれだけ飢えた目をしていたのに、どうして。
『私は雪を司る。人間の言葉では、神と呼ばれる存在だ。狼の姿を取っているが、獣とは少し違う』
 ゆさ、と長い尾が静かに揺れる。
『私は本来、生身の血肉など必要ない。必要なのは、人々が私を望み、心から敬ってくれること』
 けれど、と神狼は吐息をこぼす。
『人間たちにとって、私は敬うべき神ではないらしい。ただ冬の寒さと飢えをもたらす厄介な存在なのだろう』
 その声に悲しみが混じる。ラアダはそっと手を伸ばした。恐れもせず口元を撫でる。大きな口が僅かに緩んだ。
『私に必要なのは生贄などではなく、人々の祈りだよ。だが……、それを得られなければ腹が空く。飢えに耐えかねて、ただの獣と同じように肉を食らった』
 嘆きは低い唸り声となって喉を震わせる。
『知っているか? 死を前にした者の恐怖は、毒をはらむ。食えば腹は満ちても、苦痛がやってくる』
 神狼は、鼻先に触れる小さな手に頬を擦り寄せた。鋭い牙で万が一にも傷つけてしまったりしないよう慎重に、小さな犬が飼い主に甘えるかのように。
 それから、ラアダの首筋に鼻先を埋めるように身じろぐ。数刻前にその喉元を食い破ろうとしたのと同じ仕草だったが、ラアダはやはり恐れも見せずにそれを受け入れた。それどころか、あの時は躊躇っていたというように、そっと首を抱きしめる。
 抱き込まれて、狼は太い息を吐いた。
『ああ、これだ。お前は怖がらないんだな』
「お腹が空いているのは悲しいもの。貴方が神様なら余計だわ。貴方が辛いとみんなも困るもの」
『お前は食われて死ぬところだったのに?』
「私はいいの。貴方がお腹いっぱいになれば、みんなが喜ぶのよ。私と貴方、どっちが大事かなんて決まってるでしょ?」
 ラアダは迷わず答えた。それから抱きつく腕を緩め、心配そうに首を傾げる。
「本当に、もうお腹は空いてないの?」
『ああ』
 狼は離れた温もりを求めるように首をのばした。もとより比べようもない体格差のせいで、ほとんどラアダを押し倒すような形になる。それでも潰してしまわないようにという細心の注意を払って少女の体を包み込んだ。
『お前は怖がらなかった。私に食われることを喜んでさえいた。それだけで充分。人に存在を望まれることこそが、私を生かすのだ』
「じゃあ、良かった」
 ラアダは笑う。狼がもう空腹ではないことが嬉しいのだと言わんばかりに。
 しばらく甘えるように少女の体にすり寄っていた狼が、ゆっくりと顔を上げる。
『お前、名前は?』
「ラアダよ」
『ラアダか』
 ラアダ、ともう一度繰り返して、神狼は蒼い双眸をゆっくりと瞬かせた。
 それがどこか迷う仕草に見えて、ラアダは首を傾げる。
『お前、家に帰りたいか?』
「ーーいいえ」
 問いかけに、一瞬だけ間を置いて首を振る。戻ったところで両親は困るだろう。いくらかでも金を持ち帰ることができるのならまだしも、ただ戻るだけではいたずらに食い扶持を増やすだけだからだ。
『そうか』
 やはり迷うように息を吐く狼の次の言葉を、ラアダは静かに待った。
『ならーー私と来い』
「貴方と?」
『ああ。お前がいればーー私を恐れず、私を受け入れてくれるお前がいれば、きっと私は飢えることもないだろう』
「行くわ」
 ラアダは飛びつくように答えた。
「貴方が必要だと言うなら、行くわ」
 喜色を浮かべ、暖かい胸元に飛びつく。
 神狼はその身体を優しく受け止めた。




 翌朝、雪雲が嘘のように消えた青空の下、男たちが山道に踏み込んだ。
 岩肌をたどり、洞穴の入り口から恐る恐る中をのぞき込む。そして驚きに目を見張った。
 洞穴の中には、わずかの血臭も残ってはいなかった。狼に食い散らされたはずの哀れな少女の亡骸も、血のついた服の残骸も、何一つ残ってはいなかった。
 ただ、少女を繋いでいたはずの荒縄の切れ端だけが、噛みちぎられたようなほつれた切り口を見せてのこっていた。
 さては逃げたかと顔色を変える男たちのすぐそばで、陽光に照らされた雪が音を立てて梢から滑り落ちた。
 その冬の間中、村人たちを苦しめるような雪が降り積もることはなかった。




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