年越しの鈴

 暖炉で薪の弾ける音がした。大人の腕ほどものある薪が火の粉を散らして真ん中から割れる。暖炉の前の床に長々と寝そべっていた灰色の狼の耳がピクリと動く。
 片目を開けて様子を窺う狼の目の前で、灰になった木が崩れていく。ぱっと火勢が増し、部屋が一段と暖かくなった。
 太い息を吐いた狼は、前足の間に鼻先を突っ込んで再びまどろみ始める。
 直後、扉が勢いよく開いた。
 雪混じりの冷たい風が吹き込む。ほぼ同時に、背の高い女性が白い息を吐きながら飛び込んできた。
「あー、寒かった」
 上着にもマフラーにも雪を積もらせた女性は、そのまま暖炉に歩み寄ると、寝そべる狼の横に腰を下ろす。
「外はすごい雪だぞ、ラーディ」
 寝そべる狼に声をかけた女性は、そのまま柔らかな毛皮に両手を這わす。冷え切った指先を首の後ろに突っ込まれた狼は、耳を倒し情けない悲鳴を上げた。
「お前は暖かいな」
 そのまま背中に冷たい頬を押し付けられた狼は、嫌がるように小さく身をよじった。
「お帰りなさい、リンシャ。ああまた、そんな薄着で外に出て。上着を脱いで。風邪を引いてしまう」
 小さな騒ぎに気づいたのか、奥の扉が開いて若い男が顔を覗かせた。暖炉の熱で早くも溶け始めている雪に眉を潜め、座り込んだ女性の上着を容赦なく剥いでいく。
「せめて入ってくる時に雪を払い落としてっていつも言ってるでしょう?」
「ただいま、フィリス。悪い、忘れてた」
 小言に、リンシャは子供のように方をすくめた。けれど毎日のように同じ内容でしかられているのだから、翌日にはすっかり忘れてしまうらしい。
「で、今日はどこで遊んできたの?」
 諦め顔でため息をついたフィリスが隣に腰を下ろす。
 問いかけにリンシャの表情がぱっと輝いた。
「あのな。今日は年越しの祭りで使う木を切るっていうから、皆で見に行ったんだ。すごいぞ、こんなに太い木だったのに、あっという間に切り倒されたんだ」
 興奮した口調で、リンシャは倒された木の太さを表すように両手を広げて見せた。その弾む声は年齢には似つかわしくないほどに子供じみている。
 このあたりでは、年越しを迎えるにあたり、それぞれの家の玄関に小さな木を飾る。それには子供が喜びそうな飾り付けを施すのが習慣だ。
 もう少しで一年が終わるこの時期には、大人も子供も年越しの祭りの準備に走りまわっている。今日切り倒された木は、それぞれの家に近日中に配られるだろう。
 リンシャが示した木の太さからして、それは村の入り口に置かれる“迎えの大木”なのだろう。
「倒すだけなら結構簡単なんですよ、皆手馴れてるから。どちらかというと、村まで運んでくる方が大変で」
「うん、おじさんたちもそう言ってた。運ぶのには何日もかかるんだって」
「それも、見に行くんだ?」
「当たり前だ。だって次に見られるのは一年先じゃないか」
 強く頷くリンシャに、フィリスはこれ見よがしなため息をついて見せた。
 リンシャの肌はこの北国では見かけない小麦色をしている。生まれも育ちも遠い砂漠の中の小国で、雪など今まで目にしたこともなかったはずだ。だからこそ、縁あってフィリスの妻として夫の生まれ故郷にやってきたリンシャにとっては、目にするものすべてが新しい驚きに満ちているらしい。
 この北国に腰をすえたのは春先だったというのに、彼女は毎日のように外を駆け回っている。
 最初は見慣れぬ異邦人に戸惑いさえ見せていた村人たちも、その屈託のない態度にあっさりと警戒を解いた。特に子供たちの懐きぶりは微笑ましいもので、毎日のように誰かが遊びに誘いに来るのだ。
 あなたはいくつですか、という小言を、フィリスは夏が来る前に捨てている。砂漠の中の小さな国では、外出も自由にできないような生活を送っていたリンシャだ。自由を肌で感じている今、落ち着いてくれるのはせめて季節が一巡りすしなければならないらしいととっくに諦めの境地に至っている。
 実は彼女が砂漠の小国の女王だったという話をしても、きっとだれも信じないだろう。
「じゃあ、明日はもっと厚着をしていくこと。せめて手袋は忘れないで。霜焼けになったら辛いのは自分なんだから」
「気をつける」
 神妙に頷いては見せるものの、きっと明日には忘れて飛び出していくだろうことは明らかで、フィリスは肩をすくめた。
「でもなフィリス、明日は集会所で飾りつけの準備をするんだ。だから寒くないぞ」
「ああ、それは楽しそうだ」
 眉をしかめる夫を心配させないようにか、リンシャは笑顔で言葉をついだ。きらきらと瞳を輝かせる妻に、フィリスは笑顔を向ける。
 年越しの木を飾り付けるための小物の準備は、子供たちの役目だ。村人たちから完全に子ども扱いされていることがわかったが、さすがにそれは落ち込むだろうと顔には出さない。
「そうだ、フィリス、あのな」」
 リンシャの声がふと真剣味を帯びた。
「皆が、今年の年越しの鈴の飾り付けを私にさせてくれるって言うんだ。でもあれは、皆が楽しみにしているものだろう? さすがに断ったほうがいいよな?」
 フィリスは堪らず噴出した。
 年越しの鈴とは、広場の中央にそびえる大木の頂点に飾られる特別な鈴のことだ。祭りの主役であり、その鈴を打ち鳴らすことで新年がやってくると信じられている。
 その鈴だけは、選ばれたたった一人の子供がつけられるという決まりがある。誰がつけるかで喧嘩にならないよう、大事な役目は毎年籤で決められるのだ。
 誰もが楽しみにしているはずの大役をやってきたばかりのリンシャに譲るというのだから、彼らなりの歓迎と友情の証なのだろう。
 思わず噴出してしまったのは、子供たちですらリンシャを同格扱いしていることが分かってしまったからだ。普通ならば、いくら異邦人だろうが大人に譲ろうとはしない。
「こら笑うな、人が真剣に相談してるのに!」
「ごめん、怒らないで」
 むう、と唇を尖らせる妻に、フィリスは笑いをかみ殺して詫びた。
「悩むなら、一度断ったら? それでもどうぞって言ってくれるなら受けてあげた方があの子たちも喜ぶよ」
 大人ならば子供たちの受け取るものだという当たり前の指摘は、かわいそうだからしないでおく。
「そうか? うん、そうする!」
 少しばかりの後押しがほしかったらしいリンシャの表情がぱっと輝いた。やっぱり子供だという感想は、心の中だけに留めておく。
「なあ、鈴はお前が作ったんだろう?」
 笑いを噛み殺す夫の肩の震えに気づかぬまま、リンシャは笑顔を向けた。
「あれ、見せなかったっけ?」
「作るとは言ってたけど、完成したのは見せてもらってないぞ」
「ああ、そうか。すぐに村長に渡したんだった」
 フィリスの職業は絵描きだ。だが趣味の範疇で色々な細工物にも手を出している。そのことを知っていたらしい村長に、年越しの鈴の作成を依頼されたのはまだ秋口の頃だったか。
 年越しの鈴は、新しい一年を呼び込むという大役を担う大事な品物だ。完成すると同時に村長宅に保管され、祭りの当日まで誰も目にする機会はない。
 子供たちがリンシャに鈴の飾り手という役目を譲ると言い出したのには、きっとそういうことも理由なのだろう。
「私がつけるかどうかはともかく、早く見たいな」
 お前が作ったんだからきっと素敵だろうなと呟かれ、フィリスは思わず俯いた。
 笑顔つきのその言葉は、正直不意打ちだった。リンシャを妻に迎えてからもう一年以上経つが、彼女は時折そんな風にかわいいことを言ってくれるのだ。
「フィリス?」
 けれど、俯いてしまった夫の様子に、リンシャは不思議そうに首を傾げる。自分の言葉がどれだけ相手を浮き立たせるか自覚もしていないのだから、タチが悪い。
「ああ、もう」
 不意打ちに赤らんだ頬を隠すために俯いていたのに、その仕草に限界が来た。
「なんでそう、自覚なく可愛いコトするかな」
 顔を上げたフィリスは、リンシャの頬に手を伸ばす。
 きょとんと瞬くのを引き寄せて、額に口付けを落とす。とたんにリンシャの身体にぎゅっと力が合い理、双眸が固く閉じられた。キスにさえまだなれない仕草が男心を余計にあおるのだとは、悔しいから教えてやらない。
 ぎゅっと閉じた瞼にも口付け手から、力の入った唇にキスを落とす。
「そんなに緊張されると傷つくなあ」
「だって、だって、明るいじゃないか!」
 少しは慣れてよと意地悪く囁けば、潤んだ双眸が怒ったように睨んでくる。
「明るくなきゃ、いいんだ」
 言葉尻を捕らえて、フィリスはにこりと笑う。しまったと強張られても、今さら止まれる訳がない。
「じゃ、向こうに行こうか。大丈夫、明かりは消すよ」
「そういう問題じゃない!」
 赤い顔で睨む姿にもしっかり煽られたフィリスは、有無を言わさずリンシャを抱き上げてしまう。
「こら、待てフィリス! ――ラーディ、助けて!」
「何でそこでラーディを呼ぶかなあ」
 じたばたと暴れられても、軽い身体では威力もない。フィリスは恥ずかしさゆえの抵抗など物ともせず、妻を抱き上げたまま寝室の扉を開けた。
 ひとしきりの喧騒は、ぱたんと閉じた扉に遮られた。
 静かになった暖炉の前で、我関せずを決め込んでいたラーディがのそりと頭をもたげた。
 主人夫婦が消えた扉にちらりと視線を投げ、気のないそぶりで欠伸を洩らすと、そのまま前足の間に鼻先を突っ込んでしまう。
 ぱちぱちと薪が弾ける音と本格的に寝入った狼の平和な寝息とが、暖かな部屋に響いた。



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