図書室攻防戦

 時計の針が、午後四時をさした。膝の上の分厚いハードカバーに視線を落としていた加世子は、図書室の入り口のドアに一度目を向けてから残りのページ数を確認する。あとは最終章、約60ページを残すのみ。三十分あれば読み終わると踏んで、彼女は再び内容に没頭し始めた。
 それからきっかり三十分。パタンと表紙が閉じられるのと、勢いよくドアが開くのとがほぼ同時だった。
 加世子は司書室の窓から顔を出して在室人数を確認する。幸いなことに、本日の騒音の犠牲者は加世子以外には一人も居ないようだった。
 何事もなかったように椅子に座りなおして、“一言メモ”と書かれた小さなノートを開いた加世子は、今日の日付と読み終えたばかりの本のタイトルと簡単なあらすじ、感想を書き込んでいく。ベストセラーという謳い文句に期待した割には、オチの見えた後半の展開がつまらなかった。まあこれで主役とあの人がくっつかなかったらクレームがつくのも目に見えてるけど、と少々辛口な評価をつけ終えたところで、今度は司書室のドアが開いた。
「ちーす、委員長!」 
「図書室では静かに、っていう日本語、いい加減に覚えなさいよ。仮にも図書委員でしょうが」
 顔もあげずにそれだけ行って、加世子はノートを元の位置に戻す。
「まあいいじゃん、俺だって利用客だし。つか人居ないし」
 突き放した言葉にも頓着しない声の主が、彼女の横をすり抜けた。ついでに戻したばかりのノートを掴んでいく。背後の机に重いものが置かれる鈍い音が響く。
「あのさ、一応私も利用客のつもりなんだけど。カウントしてよね」
 加世子が振り向いて騒音の元を睨みつけると、ソレは夏に似合う笑顔を浮かべて見せた。
「いやいや、失礼しました委員長」
 微塵も反省していない口調で応えるのは、海老名雄也。加世子のクラスメートであり、同じ図書委員でもある。
 その彼は加世子が書いたばかりのノートに目を落とし、うわ酷評、などと暢気な声を上げている。
 一連のやり取りを、細部こそ違えどこの一ヶ月ほぼ毎日繰り返していることに気付いた佳代子は、頭痛を覚えてため息をついた。
 各クラスに二名ずつ存在する図書委員の仕事は休憩時間や放課後の貸し出し業務の手伝いが中心だが、ほとんどの生徒が部活などを理由にサボっているのが現状だ。当番を決めたとしても即日ずれていくローテーションのため、毎日顔をだす加世子が司書室の主に収まるのは当然のことだった。図書委員長という彼女の肩書きもそれに拍車をかけ、特に夏休みのここ一ヶ月は、ほとんど加世子一人が業務をこなしている。
 加世子自身は、自他共に認める本の虫が高じて図書館司書の資格がとれる大学に志望を出しているから、毎日図書室に入り浸っていてもさしてとがめられることもない。本の保存を名目に回っている扇風機で涼を取りながらのんびり受験勉強をするのは、彼女のお気に入りの時間でもある。
 しかし、彼女の目算を狂わせたのが、海老名雄也という存在だった。
 バレー部でセッターをしているらしい彼が、この夏休みの間中、部活が終わってから必ず顔をだすのだ。図書室という場所に似合わぬ騒音を道連れにして。
 しかめっ面で振り向いた加世子の前で、雄也は机の上に投げ出したスポーツバッグから赤い背表紙の本を一冊取り出した。
「読んだの?」
「うん、読んだ。すげーおもしろかったー。サンキュな委員長」
「……それは、何よりね」
 投げやりな返事にへこたれるそぶりもみせず、雄也はいそいそと返却手続きを始める。その背中に、加世子は複雑な視線を送った。
 彼の読書熱に火が付いたのは、六月の終わりの些細な出来事がはじまりだ。
 その日、昼休みにいつものように貸し出しカウンターの内側で新刊に目を通していた加世子の前に、ふらりと雄也が姿を見せた。彼はそのまま加世子に近づいて、ひどく真面目な顔で問いかけた。
『落窪物語ってどこにある?』
 加世子は一瞬首を傾げ、カレンダーの日付に視線を走らせてからその質問の意図を察した。出席番号の都合上、午後最初の古典の授業で彼が指名されるのがほぼ確実だったからだ。加世子は、あっさりと対訳も載る文学全集の棚を教えた。カンニングはよくない、と口を挟む義理はなかったし、そもそも国語を睡眠時間としているらしいスポーツ青年に一章丸々の訳があたるのは酷な話だろう。
 礼を言って貸し出して続きを済ませた雄也に対し、加世子は返却期限を伝えただけだった。その後、彼がカンニングがばれて教師に大目玉を食らったのは、彼女の責任ではない。
 加世子がそんな出来事そのものを忘れかけた返却期限ぎりぎりの日、閉館間際に駆け込んできた雄也は、加世子の頭を抱えさせる一言を放った。
『これ、昼ドラの愛憎劇みたいですげー面白かったんだけど、なんか他にオススメない?』
 それ以来彼は、ゆっくりとしたペースではあるが古典文学全集を読むようになった。有名どころで面白いものをあらかた読み終わった今は、明治や大正の文豪に手を出し始めているところだ。彼に言わせれば、最近の小説よりも面白いらしい。特に夏休みに入ってから若干ペースが上がったようで、中編くらいまでの長さなら一日で読み終えて返しにくる。それが騒音の原因にもなっているのだが。


 加世子は、机の上におかれた本のタイトルに視線を落とした。森鴎外。確実に収録されているだろう『舞姫』は、さぞかし彼の好みだったことだろう。
「感想は?」
「女の嫉妬? 執着? ってこえーよなー。うん、でも面白かった!」
 予想通りの答えに小さく笑って、加世子は手続きを終えた本を再び雄也の手に押し付けた。
「はい、返却受け付けました。自分で戻してきてね。次何借りるか決めてるの?」
「うーん、芥川。どうよ?」
「だったら『楡盗』が入ってるはずだから気に入るんじゃない? 一人の女を奪い合う兄弟の葛藤、なかなか読み応えあると思うよ。で、これが右から五番目。芥川は一番左端だから」
 司書教諭から“歩く目録”とさえ呼ばれる加世子の記憶力は伊達ではない。図書関係にしか発揮されないのが難点だが、今のところ図書室の蔵書なら大体の配置を覚えている。
「りょうかーい」
 本棚の方向をさして言うと、雄也は軽い足取りで司書室から出て行った。加世子は時計を見上げる。4時45分、閉館まであと15分だ。
 そろそろ自分が借りて帰る本もさがそうかと立ち上がったところで、本棚の奥から声がとんできた。
「なあ、委員長ぉー、見当たんねぇんだけど、芥川」
「全集のどこか、左右ずれたところにない?」
「ないよー」
 即座に返ってきた答えに加世子は首を傾げた。ここ数ヶ月、文学全集を借りているのは雄也だけだ。利用者の少ない本の配列が動くことはほとんどないはずなのに。
「他の全集のなかにまぎれてない?」
 赤い背表紙に金文字のタイトルでは他にまぎれようもないだろうと思いつつ一応確認をとると、やはりないと返事が返る。
 壁の飾りと化しつつある全集シリーズは、調べ物でもない限り引っ張り出そうという人間は少ないだろう。それでも、無断で持ち帰る不届きな輩が居ないとは限らない。加世子は自分の目で確かめるべく本棚に向かった。
 需要の少ない物を奥に追いやっていく配置のこの図書室では、目的の文学全集は大型の美術図鑑などと一緒に一番奥の棚に置かれている。二人がなんとかすれ違うのが精一杯の通路の狭さのうえに、袋小路になっている突き当たりの場所は、電灯の光をさえぎって常に薄暗い。
「本当にない?」
「うん、ざっと見た限り見つからない。俺の探し方が悪いのかな?」
「……ちょっと通してね」
 申し訳なさそうに頭をかいた雄也が、背中を後ろの本棚に貼り付けた。ようやくあいた空間をすり抜けて加世子は、本棚にすばやく視線を走らせた。
「――あるじゃない」
 三秒もせずに、彼女は呆れたため息をついた。確かに全集の並びには見当たらなかったが、最上段の一番端にポツンとひとつ赤い背表紙があるのだから、すぐに分かる。
「ありゃ、ホントだ。悪い、上見てなかった」
 雄也はひょいと手を伸ばして、目的の本を引き出した。背伸びしてもようやく本の最下部に指先が届くかどうかの身長の加世子と違い、雄也の背丈なら彼女の頭越しでもあっさりと手が届く。
「サンキュ、委員長」
 半ば覆いかぶさるようにしているため、加世子の目の前に雄也の大きな手が着かれている。本棚用のはしごの要らない身長がうらやましいと暢気に考えていた加世子の視界がさらに翳った。原因に思い至るよりもさきに、唇に暖かくやわらかいものが一瞬触れて遠のいた。
「加世子さん、今度さ、正式に告白するつもりでいるから、答え考えといてよ」
 絶句する加世子に、悪戯を成功させた子供のような笑顔になった雄也が告げる。
 加世子の硬直が解けたのは、お疲れまた明日、という雄也のあっけらかんとした声が扉の向こうに消えてからしばらくたってのことだった。
 思わずうずくまって、膝に頬を押し付ける。顔が火照っているのが良く分かった。
 いろいろ反則だろうと叫びたいが、叫ぶ相手はもう居ない。そもそも、言葉がでてこない。
 ふらふらと立ち上がったところで、五時を告げるチャイムが鳴った。
 
 “今度”が来るまでにどう答えればいいのか、それはこの図書室のなかでは見つからなさそうだった。
 

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