橙幻鏡

「どうぞこちらへ」
 女の声に促され、私は一歩踏み出した。
 ひやりとした感覚に視線を落とせば、夏物の黒いスラックスからでた私の素足は、磨きあげられた石を踏みしめていた。
 大理石なのか、滑らかな石の廊下は黒々と輝いていて、見下ろした私の顔がぼんやりと映るほどだ。どこからか差し込む光のせいか、白いシャツを着込んだ上半身が、石の鏡にゆらゆら陽炎のように揺らめいている。一瞬、引き込まれそうな錯覚を覚えた。
「さあさ、そんなところにいらっしゃっては、お足が冷えてしまいます」
 女がもう一度言い、私は我に返った。
 女は、質素な柄の、けれど目を引く赤い着物を纏っている。どちらかと言えば朱に近い、水をくぐって色あせたような風合いだ。それが貧相な印象にならないのは、袖や裾に散った金の模様のせいだろう。さらに、濃い茶金と黒でまとめられた帯が、ぐっと雰囲気を引き締めている。
「小粋な着物だね」
 私は、女の後をついて歩きながら声をかけた。
「あら、うれしい」
 女は、半身だけ振り返り、そっと頬を染めた。
「うん。帯がいい。それに、赤地に散った金がいいね。静かで品がある」
 私は、半ばムキになって言葉を継いだ。女の、褒められ馴れていない仕草に、なぜか腹が立ったのだ。
「本当に? うれしいわ。 最近は青だとか紫だとか、もっと派手なお着物の方が人気なんですよ。振り袖みたいにひらひらした感じの」
「でも、君にはそれがよく似合ってる。流行りがどうかしらないが、自分に合うものがちゃんとわかってるんだから、それが一番だよ」
 女が困ったように笑っている。なぜムキになるのか、自分でも訳がわからなくて、あわてて咳払いに逃げる。
 その間に、女が廊下の角を曲がった。その先は濡れ縁に鳴っていて、こじんまりとした中庭が目の前だった。砂を敷き、岩と松を配した日本庭園だ。
「いいね。こじんまりとしていて」
「あら、こじんまりとしたものがお好きなのね」
 女がころころと笑う。
「そうだよ。だから君も好きだ」
 とっさに、そんな言葉が口をついて出た。
「いやねえ。からかってばかり」
 女は私の言葉を笑いに受け流して、庭に面した障子をすっと開けた。
「こちらへどうぞ」
 八畳ほどの和室。つんと青い畳の匂いがした。
「こじんまりしてるでしょ」
 女は言った。たしかに、床の間を飾るのは小さな掛け軸と一輪挿しのみ、家具も小さな机と座椅子だけだ。
「ゆっくり休んでいてね。お茶を淹れてきますから」
 女が出ていった。
 私は座椅子に座って息をついた。
 そういえば、上着をどうしただろう。確か背広の方に財布も何もかもをいれておいたはずだ。
 何もない部屋を見回して、急に不安がこみ上げてくる。
 そもそもなぜここにいるのだろうか。
 どこかの料亭か旅館だとばかり思っていたが、この建物の玄関をくぐった記憶がない。覚えているのは、あの女の背について歩いているところからだけだ。
 障子が、からりとあいた。
「あら、どうしたの。怖い顔なさって」
 女が湯呑みの載った盆をもっていた。
「外は暑かったから、疲れたのでしょうね。すこしぬるめのお茶にしてみたの。落ち着くと思うわ」
 女は言いながら湯呑みをおいて、それから右手で私の肩に触れた。
 細い指先の、感覚。思ったより冷たい。
「どうか、なさった?」
 女の指が触れたとたん、ふっと体の力が抜ける。同時に、たしかにつかみかけたと思った記憶の欠片が、ぼんやり瞬いて消えていった。
「――いや」
 ぼやけた思考を立て直そうにも、声を出した瞬間に、わずかに残っていた残滓さえ消え失せる。
「疲れてらっしゃるのね」
「そうかもしれない」
「お仕事が大変なのかしら」
「たぶん、そうなんだろうね」
 女の声が耳に触れるのが、心地いい。
「あら、他人事」
 女は、口元を袖に隠してころころと笑った。その姿が大層色っぽかった。
「でも、ここは仕事のことを忘れていいばしょなんだろう?」
「そうね、そうなるといいわね」
 私は目の前の白い湯呑みに手を伸ばした。薄い緑色の茶が、わずかに波紋をたてている。柔らかい香りは、新茶のものだろうか。
 茶は、女の言ったとおりほの温いくらいの温度だった。
「夏は、冷たいものばかり召し上がるでしょう? 胃や内臓が冷えて疲れてしまっているから、温めのお茶がいいんですって」
 私はお茶を二口、三口とすすった。舌を焼かない茶は、たしかにほんのりと体を温めてくれる。
「美味いな」
 いい葉を使っているらしい。口の中にわずかな苦みを伴った、すっきりした味が広がる。
「それにね、汗をかいた後も、水よりお茶の方がいいのですって」
 女が言った。
「私のことを、気にかけてくれているのかい?」
 試しにそう訪ねると、女は恥ずかしそうにふふ、と笑った。
 それが、たまらなく可愛かった。
 決して若くはない。年頃の子供が一人二人いても不思議ではない。目尻にも口元にも、細かな皺が刻まれている。どれをとっても、相応に年を重ねた顔つきだ。それなのに、その辺の若い娘より、ずっと魅力的なのだ。私は、思わずほほえんだ。
「可愛いね」
 ついで口をついた言葉に、私は驚いてしまった。亡くなった妻を口説いた遠い昔も、こんな直接的な物言いはできなかったのに。
「まあ……」
 どぎまぎしている私の横で、女はもっと顔を赤くしてうつむいた。背けて露わになった襟足までが、ほんのり色づいている。
「だめよ、こんなおばさんをからかっちゃ」
 そんなことを言いながら、私の視線から隠れるように体を背けるものだから、抜け気味の奥襟から、白い背中までが覗いてしまう。
 女の首筋をじっと見つめている自分に気づいて、私は慌てて下を向いた。目に付いた湯呑みを取り上げて、ほとんど一息にあおる。
 正直に言えば、彼女に欲情したのだ。
 私は女を視界に入れないよう無理に首を捻って閉てられた障子を見た。夕暮れ色に染まった障子紙に、波打つ陰が映っている。ゆらゆら、ゆらゆら、と小刻みに動くのは、池の波紋が投げかける光のいたずらだろうか。
 けれど、この部屋に面した中庭に、池などはなかったはずだ。ならばこの光はどこから届くのだろうと首を傾げた私は、女に目を向けて息を呑んだ。
 障子に映った波紋は、彼女の周囲にも同じように淡く揺らめいていた。まるで、水の中にでもいるような錯覚さえ起こる。
 赤い着物を纏って水底にたゆたう彼女は、竜宮城の乙姫と言ったところか。
「ねえ」
 乙姫がこちらを振り向いた。濡れたような双眸が、じっと見つめてくる。
「ねえ本当に――」
 彼女は言うべきか否かを迷うように瞼を伏せた。
「本当に、私のこと、好いてくださる?」
「もちろんだ。こんなこと、冗談で言えるもんか」
 私は意気込んで答えた。それから、口に出した言葉がまごう事なき本心だと、遅れて自覚する。自覚したとたん、胸のわだかまりがすっと消えた。
 そうだ。私は彼女が好きだ。
 十代の若者のように彼女に劣情を覚えているのも、どこかへ連れ去ってしまいたい衝動が胸をよぎるのも、私が彼女に惚れているからだ。
「君が好きだ。ずっと一緒にいたい」
「嬉しい……」
 けれど、そう答える女の表情は変わらず堅かった。わたしは、半ばむきになって言葉を重ねた。
「信じてくれ。僕は本気だ」
「それなら、それなら、私を連れていって。お願い、一緒に――」
 彼女は、私に手を伸ばした。遠慮がちに伸ばされた手は、ようよう私の膝頭に触れる。それが彼女の精一杯の訴えだと思うと、私はたまらなくなるほど彼女が愛おしかった。
 私が彼女を抱きしめようと両腕をあげたその時、庭の方で物音がした。
 彼女が反射的に振り向く。伸ばした手が、すんでのところで彼女の体を掴み損ねた。
 水紋の中を泳ぐように、影が一つ障子の向こうをよぎる。
 それは、四つ足の獣の形をしていた。
 彼女が腰を浮かす。私も思わず膝を立てた。
 地響きにもにた低いうなり声が響き、直後、障子が音を立てて倒れ込んできた。
「嫌だ、猫!」
 彼女が叫ぶ。
 猫? 確かに風貌は薄い茶色の虎猫だ。けれど、その体躯は片膝を立てている私と真正面から睨み合えるほどに大きい。そんな体高を持つ猫など、私は知らない。それはまさに、虎と言っていい獣だった。
 虎に獣は、私をじっと睨んだ。私は一瞬、殺される自分の姿を脳裏に描いた。
 つ、と獣の視線が逸れた。それの興味は私から彼女に簡単に転じたようだ。
「たすけて」
 かすれた声をあげて、彼女が私を見る。
 けれど私が彼女の腕を掴んで引き寄せるより、獣が跳躍する方が早かった。
 爪をむき出しにした前足が、彼女を襲う。
「逃げろ!」
 私は、叫ぶしかなかった。
 そして私が張り上げた声は、ガラスの砕ける甲高い音にあっけなくかき消された。





 響いた耳障りな騒音に、私は目を開けた。
 黒ずんだ天井と、ゆがんだ梁が目に入った。
 ここはどこだ。
 あの明るい、庭に面した部屋ではない。暗く沈んだ狭い和室に、私は仰向けに寝転がっていた。
 彼女はいない。獣は、どこに行った?
 首を持ち上げた私の視界の端を、茶色い何かが横切った。
 猫だ。黄色がかった毛並みに、薄く走る茶色の縞模様。目つきの悪い、トラ猫だ。
 それは、彼女に襲いかかった茶色の獣とよく似ていた。否、大きさが違うだけで、姿形はまるきり一緒だった。
 猫は私が起き出したことに驚いたらしく、足を止め、毛を逆立てて唸った。
 侵入者が向かおうとしていた先に視線を転じ、私は息を呑んだ。
 古ぼけて赤く焼けた畳の上に、水とガラスが散乱している。私を夢から醒ましたのは、このガラスが砕ける破壊音だったのだろう。
 水とガラスとがきらめく畳の上で、一点の朱色が跳ねていた。
 ガラスの元は、金魚鉢。中にいたのは――。
「こら!」
 私は飛び起きて怒鳴った。畳の上で踊る小さな金魚に向けられていた猫の注意が、私に戻った。
「出ていけ!」 
 怒鳴る私を、猫が眺める。人間を恐れていないのかそれとも私を恐れていないのか、猫は背を丸めて唸った。それはまるで、邪魔をするなとあしらう仕草のようだった。
 私は、拳をふりあげた。それだけでなく、手に触れた何かを猫めがけて投げつけた。私が枕にしていた古い本は、バサバサと非力な音を立てて宙を舞った。
 猫は、ようやく私をまともに認識したようだった。不機嫌も露わに、こちらを威嚇した。体を低くして身構えるのは、それでも優位を疑っていないせいか。
「ふさけるな!」
 私は思わず、近くにあった大ぶりのガラス片を投げつけた。力が入りすぎたのか、当てるつもりのそれは斜めの方向に飛んで、猫の真横の畳にぶつかって砕けた。
 猫が飛びのいた。ぎゃっと人間じみた声を上げて、開いた障子の隙間から逃げ出した。
「ちょっと、良ちゃんいったい何の騒ぎ?」
 廊下から、和服姿の女が顔を出した。部屋に散らばる水とガラス片に、ぎょっとすくんだのがわかる。
「姉さん、何か容れもの持ってきて! 水を入れて! 金魚が!」
 姉は物も言ず踵を返すと、足音高く廊下を駆け去っていった。
 私は、畳の上で哀れに跳ねる金魚をすくい上げた。金魚は私の手のひらの上で、力なく体をのたうたせている。その、空気を求めて開く口から、悲鳴がこぼれたような気がした。
 私はそれを見つめ、ようやく合点が言った。
「そうか、君だったのか」





 黄色がかった古ぼけた電球の下で、私はガラスのコップに住処を移した金魚と向き合っていた。祭りの屋台でよく見かける、あの朱色の細い緋鮒だ。
 ようやく体の向きを変えられるかどうかの狭さに加え、カルキ臭い水道水。そんな劣悪な状況に置かれても、金魚は比較的元気そうだった。
 金魚は、亡くなった父が数年前、どこかの店の売れ残りを買い取ってきたものだ。息子である私は仕事のため都会に出ていったきり、早くに妻を亡くして田舎で一人暮らしを余儀なくされた父の、慰めだった。
 金魚であれなんであれ、生き物を飼うことをかたくなに拒んでいた父も、老いと孤独には堪えられなかったのだろうか。
 私がガラス面に指を近づけると、金魚はそっと身を寄せてきた。父も、そんな風に慰めていたのだろうか。こちらの様子を理解しているかのように、私をじっと見つめている。
 金魚の朱色の体には、ところどころ金色の模様が浮かんでいる。それは、私が夢に見た、あの女が小粋に纏っていた着物の柄そっくりだ。
 金魚は、左右の胸びれをひら、ひら、と打ち振った。
 金魚が、否、彼女が言わんとしていることはよく分かる。
「大丈夫」 
 私は口を開く。こぼれた言葉は、熱に浮かされたように上擦った。
「大丈夫、君は僕のところにつれていくよ。約束しただろう」
 ああ、馬鹿なことを。
 頭の隅で誰かが言う。目尻をつり上げた姉かもしれない。
 けれど、私にはもう、あのはかなげに笑う彼女の顔しか見えていない。
「ずっと、君と一緒だ」
 緋い金魚は、嬉しそうにくるりと泳いで見せた。

 私は、父の葬儀を終えた晩に、父の物だった金魚に囚われたのだ。

Index