翼の下で昼寝をして

 丘の上に、一機の複葉機が鎮座している。木と布とで作られた機体は真っ青に塗られ、真上から照りつける夏の太陽を反射して鈍い銀色に輝いている。
「ちょっとヴィンス! またこんなところでサボって!」
 頭の上から落ちてきた甲高い声に、翼の形をした影の下、長い草のなかに寝っころがっていた塊がもぞりと動いた。
 人影は、頭の下に組んでいた両腕をほどいて、目深にかぶった帽子のつばを押し上げる。けれど覗いたのは素顔ではなく、唇のすぐ上までを隠すような黒い遮光ゴーグルだ。
「もー、またそんな寝方して! 日焼けの後がヘンになっても知らないんだからね!」
 表情を隠すゴーグルを、白い指先が掴んだ。そのまま躊躇うことなく引っ張り上げれば、顎を突き出すように上向いた顔とゴーグルとの間に僅かではあるが隙間が開く。
「わ、セレア、ちょっと待て!」
 眠気が飛んだらしい切羽詰った声が上がり、枕から開放された手が、後ろのゴムのつなぎ目をまさぐった。
 パチンと音がしてゴーグルが外れる。ずり上がっていた帽子も、その動きにつられて後ろへ落ちた。
 やわらかな栗毛と、そばかすの浮いた白い肌が、太陽の下にさらされる。
「う、わ! まぶし!」
 直後悲鳴を上げた少年は、そのハシバミ色の双眸を眇めた。それだけでは飽き足らず、両手で顔を覆う。
「セレア、お前何のイヤガラセだよ! パイロットが目をやられたら最悪じゃんか!」
 うーわー、最悪、と罵りながら、ヴィンスは目を覆い座ったままで移動し始めた。
「何よパイロットって! 練習なんかちっともしてないくせに!」
 陰へ陰へと動いていく少年を、腰に手を当てた少女が見下ろす。つばの広い真っ白な帽子に縫いとめられた黄色のリボンと、空色のワンピースの裾とが風にはためいた。
「人聞き悪いな、ちゃんと練習してるさ。朝と夕方な。お前が見たことないだけだよ」
 まだ目がちかちかする、とぼやいた少年は、薄緑色のつなぎの操縦服の両足を引き寄せ胡坐をかいた。
 上目遣いに少女を見上げ、意地悪げに口端をあげる。
「それよりもお前、日焼けなら自分のこと心配しろよ。この時間にそんな薄着で出歩いたら、すぐに赤くなって黒くなるぜ」
 真夏の太陽に透けそうな薄い布地一枚では、たとえ長袖だとしてもたいした日よけにはならないというのに、セレアの服は見事に半袖だ。
 指差された自分の二の腕に目を落とした少女は、慌ててヴィンスの隣、複葉機の翼の下へと飛び込んだ。
「もー、ヤダ! ねえ、焼けてない? まだ大丈夫?」
 セレアはそう言って、右の袖をまくってヴィンスの目の前に突き出した。その上ふわふわのスカートを膝上までずり上げてみせる。
「ばッか、お前何やってんだよ!」
 いきなりさらされた幼馴染の白い肌に。少年は真っ赤になって怒鳴った。体ごと無槍に捻じ曲げそっぽを向いた顔は、耳から首に至るまで赤い。
 怒鳴られたセレアも我に返り、慌てて布地をあちこち引っ張った。恥ずかしさに伏せられた顔の赤みは、こちらもいい勝負だ。
 気まずく落ちた沈黙を破ったのは、ヴィンスの大きなため息だった。
「お前、ホンっとバカだよな」
「何よ……」
 唇を尖らせたセレアの反論は、だが弱く尻すぼみになる。
「ま、イイんじゃねぇの? お前がバカなのは今に始まったことじゃないし」
 体の向きを戻したヴィンスは、両腕を頭の下に組んで再び寝転がった。
「お前がバカやってんの見ると安心するしなー」
「ちょっと、いくらなんでもソレは失礼よ!」
「大丈夫、俺はちゃんと飛ぶよ」
 寝転がり、翼の下から空を見上げたまま、ヴィンスが呟いた。脈絡のない、けれど真剣な声音に、少女は続く言葉を飲み込んでしまう。
「誰に何言われても、俺は出場するぜ。オンボロ練習機の何が悪い。こいつはちゃんと飛べるんだ」
 近くから見上げれば、翼にはあちこち修繕を繰り返したつぎはぎの後が見える。セレアはそれをつられたように見た。
 あと一月後に開催される競技会に出場するには、不向き――いや場違いともいえる練習機だ。
「そうよね。ちゃんと飛べるんだもん。飛べるんだったら立派な飛行機よね」
 そう言って、セレアはスカートがずり上がらないように苦心しながら幼馴染の横に寝そべった。
 工業のさかんなこの町で、もっとも力を入れているのが飛行機産業だ。造る側だけでなく、それを操縦するパイロットの育成にも力が入るのは当然の成り行きだった。
 今では、国中の名だたるパイロットのほとんどがこの町の出身だ。
 そんな環境の中で、ヴィンスがパイロットを目指そうとしたことに何の不思議もない。
 けれど、彼は優秀な生徒ではなかった。
 良くも悪くも平均、取りたてておちこぼれではないが、特に秀でている箇所もない。
 それでも子供に期待をかける親はもちろん居る。金と時間とをつぎ込んで、少しでも才能を伸ばそうとする親は多い。
 だが、彼の場合、両親の期待は欠片も与えられることはなかった。
 両親が全霊をかけているのは、ヴィンスではなく五つ上の兄だ。
 技術も感性もずば抜けていると評価の高い兄と、これといった得意もない弟とでは、どちらに目をかけられるかなど分かりきっている。
 一月後に開かれる競技会で、注目はすべて兄に集まった。両親は飛行機を新調し、調整し、名前を国中に響かせることに繋がる優勝に向けて、すべての力を注いでいる。
 ようやく一人で練習機を乗りこなせるようになったばかりの弟に、関心が向くはずもなかった。
 けれど、だからこそ、彼はおまけでの出場を許された。
「絶対、ちゃんと飛ばせてよ」
 そんな幼馴染の事情を熟知しているセレアは、ことさら明るい声で言葉を継ぐ。
「絶対、皆のこと見返してやらなきゃ」
「ああ、分かってるさ」
 二人ともが翼の裏側に視線を投げているのは、どことなく気恥ずかしさが残る性だろうか。
「ちゃんと飛んで、俺だって一人前なんだって認めさせるさ。そしたら、お前も乗っけてやる」
 その声に含まれた意志の強さに、少女は頬をほころばせた。
「約束だからね! 私の特等席、予約しとくんだから」
 勢い込んだ幼馴染の反応に照れたらしいヴィンスは、ひょいと身を起こして表情を隠すように背伸びをした。
「さて、そろそろこいつも起こしてやるかな。セレア、危ないから離れとけ」
 立ち上がったヴィンスは、器用に、そして慣れた動きで翼を登っていく。早く行けよ、という声が頭上から落ちてきて、セレアは慌てて翼の下から這い出した。
「あたしが後ろにのっても平気なくらい、ちゃんと上手くなるのよ!」
 操縦席に頭を突っ込んだヴィンスは、聞こえたはずの声を無視して作業を続けている。けれど、セレアは怒らない。
 最初に自分の飛行機の後ろに乗せる女は、結婚相手。そんな飛行気乗りのしきたりを、彼が知らぬはずもない。
 いつか同じ景色を見る日を想像して、セレアはこみ上げる笑みを抑えきれずにいた。

 ヴィンスが飛行気乗りとしての第一歩を踏み出す大会は、もうぐそこまで迫っている。
 


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