青くゆる空

 どこかで鳥が、甲高い鳴き声をあげている。
 風が右から左に吹き抜けて、黒く焼けた土塊からいまだ立ち上る濁った煙を、どこかへ運び去って行った。
 くすぶる視界が晴れて、ふと見上げた空は雲一つなく澄み渡っていた。
 耳の横を伝う生暖かい感触に、ジグリードは重い右腕をなんとか持ち上げた。頬を拭うと、泥まみれの手の甲が濡れる。
 泣いているのだと自覚したとたん、涙は止まらなくなった。
 今頃押し寄せてきた恐怖のせいか、生きているという安堵か、それとも戦友も上官も見殺しにするしかなかった後ろめたさか。腕で顔を覆い喉奥で嗚咽をかみ殺すジグリード自身にも、それはわからなかった。
 殿軍という名の、逃げ遅れた部隊の末路は、悲惨だった。
 ただ耳に残るのは、死とはそういうものだと体で覚えさせられた、砲弾が飛来する音だ。身を竦める暇もなく着弾の閃光が視界を奪い、鼓膜を揺さぶる轟音が聴覚を奪った。
 聴覚が麻痺することで訪れる静寂は、ほとんど同時に彼の意識も途切れさせたらしい。あれからどれだけの時間が経ったのか、まったく分からない。


 最初から不利なのは、誰もが理解した戦いだった。こじれた外交、開戦への足音。誰もが息を呑み、様子を見守るしかなかった。
 その上、和解への一縷の望みを捨てきれなかった政府は、相手国を不必要に刺激することを恐れた。そのため、和平交渉を進める傍らで軍備を増強するという、国家として当たり前の行動に踏み切ることができなかった。
 思い切れなかったことが、仇となったのだろう。
 最初から戦争をふっかけるつもりだった強国相手に、及び腰の弱小国家が敵うはずなどなかった。
 戦況は、初戦から大敗につぐ大敗となった。戦地からは敗走と壊滅の報告しか届かない。
 一気に不足した兵力は、壮年の一般市民によって補われた。人々は、日毎に近づいてくる死線へと追いやられるように出陣していった。
 召集令状を前に泣き崩れた者がどれほどいただろう。
 ジグリードは、泣き崩れるよりも前に神を呪ったクチだった。
 折しもその日、彼は想いを寄せた幼なじみに求婚するつもりでいた。けれど朝一番に彼が受け取ったのは、恋人の甘い口づけではなく、戦場への片道切符だった。
 泣きわめく母、背を向けて肩を震わせる父に頭を下げて、ジグリードはそのまま出立した
 丘の上で待つ幼なじみに連絡が行く前に、旅立ちたかったのだ。
 だから、彼は息を切らせて駆けつけてきた幼なじみの顔を見てはいない。
 駐屯地へ向かう汽車の中で、彼女に存在しない未来を誓わせずにすんだことだけが嬉しかった。
 渡すつもりだった婚約指輪だけが、お守りのように胸ポケットに残っている。


「生きてるか、お前」
 青空の下で泣き続けていたジグリードに、声が投げかけられた。
 腕を退けて見上げると、黒く煤けた顔の男が立っていた。顔同様に泥まみれの軍服は、味方だということがかろうじて判別できるだけで、階級章までは分からない。
 上官かもしれない相手にどう答えたものかを迷って沈黙を守ったジグリードに、男は言葉を継いだ。
「戦争は終わっちまったぜ。もう何年か息をしてたかったら、さっさと立て。そのまま寝っ転がってたら、死体の仲間入りだぞ」
 ジグリードは呻いた。あ、とも、う、ともつかない声の意味が放っておいてくれだったのか、それとも助けてくれだったのかは、本人にもよく分からなかった。
 けれど、男が兵嚢の中から取り出した水筒と食料袋を目にした時、ジグリードの体は本能に従った。
 むしりとるように二つを手に取り、乾パンを頬張った。喉に絡む塊を、水で飲み込んだ。
「そうそう、食えるだけの元気がありゃ、大丈夫だな。喰ったらここから動くぞ。のたれ死ぬよりは、どこだってマシだろうさ」
 そういっ伸ばされた手を、グリードはすがるように掴んだ。
 男の肩越しに見た空は、嫌になるほど蒼かった。

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