荷造りは手慣れたもの

「支度はできたか、フィル」
「待って待って、もう少し!」
 少女は、身長の半分を優に越える荷物の上に屈み込んでいる。堅く縛った口の上に使い込まれた寝袋を固定しようとやっきになっているのだが、どういった加減かなかなか安定しないのだ。
「下手くそ、貸してみろ」
 しびれを切らした男が、横合いから手を出した。日焼けして赤みを増した手は、どちらかといえば老人に近いしわが刻まれている。けれど骨ばった指先は、力強く動いた。何度やっても逃げを打っていたはずの寝袋は、はじめからそうであったかのように定位置に固定された。
「手の掛かる奴め」
「ありがと」
 できあがった荷はさらに嵩を増している。これを背負って歩くのかと思うと、今から疲れた気分になり、フィルはため息をついた。文句を言えば十倍に膨らんだ嫌みが返ってくるのを知っているから、口には出せない不平だ。
「よ、い、しょ、っと」
 フィルは足を踏ん張って小山になった荷物を背負った。
 荷物の両脇には小さな鍋やら薬缶やら、雑多なものがくくりつけられカラカラ音を立てる。中身は着替えから雨具から携帯食料まで、いわゆる旅に必要なすべてが詰まっている。たとえ野宿を念頭においた最低限の品数であっても、フィルにはずしりとこたえる重さだ。
 前かがみになったところで踏ん張りきれず、泳ぐように二歩、三歩歩いた。
「どこへ行く気だ」
「と、止まらないんだってば! ――きゃあ!?」
 最後の悲鳴は、引っこ抜かれる勢いで荷物ごと引き寄せられたせいだ。
「軟弱者め。もう少し足腰を鍛えておけ」
 片腕でいとも簡単にすべてを支えて平気でいる男が、鼻の頭に皺を寄せて唸った。フィルは首を竦めて体勢を整える。支えられながらとはいえ、ようやくまっすぐ立つことができた。
「ありがと、ジグリード」 
 少女は首を捻って男を見る。ジグリードの背には、小さな箱が一つだけ負われている。重量も嵩も、フィルのそれとは比べものにならない小ささだが、それは依頼主から預かった、大事な大事な商品だ。
 値が張る上に壊れやすく、代替のきかない一点物。いくら軽くても、それはまだフィルには持てない。
 ジグリードの家業は、配達屋だ。速く安くの時流に逆らうように、受けた仕事は確実に届けることを第一信条に掲げている。
 けれど、フィルは彼のことについてそれ以上を知らない。
 ジグリードという名前と、フィルの生まれるずっと前の戦争に兵士として参加していたこと、その頃になくした何かを探し続けているということ。国中を旅する配達人を生業にしたのは、捜しものに適しているからだという。
 それを教えてくれたのは、孤児だったフィルを引き取り育ててくれていた老婆だった。小さな荷物を何度か預ける老婆は常連で、古いつきあいがあるのだということを何かの折りに聞かされたのだ。
 そして、フィル自身も、老婆からジグリードに預けられた荷物の一つだった。
「何かのついでで構わないから、この子が幸せに暮らせる場所に届けておくれ」
 死期の迫った老婆の頼みを、男はほとんど表情を変えることなく引き受けた。
「それはまた、難しいな」
 できないとは決して言わなかったジグリードの真意を、フィルは未だ知らない。彼の中にどこかあてがあるのかどうかも聞いたことがない。
 けれど、疎縁だった老婆の身内たちの繰り広げた遺産相続の争いから離れ、旅をするのは楽しかった。旅をして目にする世界は、書斎で触れたどの書物より広く、知らないことにあふれていた。
 汽車の窓を流れる風景、小舟でゆられる波の感覚、馬に乗ったときの耳元で風を切る音、朝露に濡れた葉の色、嵐の前の低い空と水の匂い。すべて、ジグリードのそばで知ったことだった。

「忘れ物はないな」
 なにもないことが一目で分かる小屋を見回して、フィルは頷いた。依頼主が準備の間にと手配してくれたのは、立て付けの悪い小さな物置小屋で、使われなくなって久しいそれは、ほとんど廃屋といってもいいような代物だった。ここで二十日も寝起きして体調を崩さなかったのは、ひとえに夏に向かう季節のおかげだったに違いない。
 預かった荷を届け、その届け先の町で新しい仕事を請け負うのが、ジグリードのやり方だ。次の依頼が決まるまでの間はどこかに寝泊まりの場所を確保することになるが、大抵はこのような使われなくなった小屋にあたる。風は吹き込んでも雨漏りしなかった小屋は、正直上等な部類だった。特にこれから数日は通らなければならない山越え最中の野宿に比べれば。
「山越え、何日かかるかなぁ?」
「お前次第だ。へばらなければ三日。はやくまともな場所で寝たかったら頑張るんだな」
 ジグリードが小屋の扉を押し開けた。
 フィルは、寝台を振り返った。申し訳程度に組まれた気組みの箱も、岩肌での野宿に比べれば天国のようだった。
「ほら、いくぞ」
 外は、少し湿った暖かい風が吹いていた。東の空はほんの少しだけ明るくなり始めているが、西にはまだ星が瞬いている。
 小さな村は、まだ寝静まっている。ようやく顔なじみになってきた同年代の女の子たちに別れの挨拶ができないのが、少しだけ残念だった。
「また、来れるかな」
 配達屋の仕事は、客次第だ。条件さえ合えばどこへでも赴く代わりに、依頼のない場所には出向かない。
 もし次にここを訪れるとすれば、誰かがこの村への配達を依頼した時だ。
 それは十分承知していて、それでも未練が口をついて出た。
ジグリードの熱い掌が、ぽんと少女の頭に乗せられる。
「縁があれば、また来れるさ」
「そう、だね」
 縁さえつながっていれば、いつかきっと再会できる。
 その言葉は、彼の持論だった。
「楽しみにしとくわ」
 ジグリードは、滅多に見せない笑みを唇に乗せた。
「さあ、いくぞ」
 まだ暗い夜道を、二つの影が上っていく。
 新しい場所で新しい縁に出会う。それはきっと、なかなか味わえない楽しみだ。
 ジグリードの背を追いかけながら、フィルは湧きあがる期待を自覚していた。

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